旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄車に引けを取らなかった富士急の意欲作 富士急行5000形【1】

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 鉄道車両の中には、傑作ともいえるベストセラーもあれば、失敗作と言われてしまう残念なものもあります。そして、新機軸を多数投入した試作的要素の強い意欲作とよべるものもあるのが事実です。

 それらは、大量の車両を必要とする国鉄・JRや大手私鉄ではよくあることですが、厳しい経営環境に置かれている地方私鉄では、そうした車両を製作することは難しく、新車そのものの導入を見送り、自社の運営する路線にある程度合った中古車両を導入することが多くあります。

 例えば東急電鉄で長年活躍した車両が、多くの地方私鉄に譲渡されている例は多くあります。特に18m級中型電車は人気が高く、目蒲(現在の多摩川)・池上線で運用されていた車両は、東急電鉄では古くなったとして御役御免になったものの、多数が地方私鉄で活躍しています。

 7200系は抵抗制御ながらも、回生ブレーキを装備していて、取り扱いも容易で省エネ性もあることから、多数が豊橋鉄道に譲渡されました。また、同じ東急グループに属する上田交通(後に分社化して上田電鉄)にも譲渡され、さらには十和田観光電鉄を経て大井川鉄道でも活躍する姿が見られます。

 日本初のオールステンレスカーである7000系VVVFインバータ制御化改造した7700系もまた、養老鉄道に譲渡されていきました。種車の製造から既に半世紀以上が経っているにもかかわらず、2020年を目前にして譲渡されてさらに活躍するという例はなく、このままでは1世紀にも渡って活躍を続けていくという予想も立てられるでしょう。そうなればギネスものですが、腐食に強く、強度も高いステンレス鋼の特性が最大限活かされた形になるといえます。

 さて、このように多くの地方私鉄では、今日では安価な中古車両を調達して、老朽化した在来車を置き換えて、運用コストの削減と乗客サービスの向上を目指すようになりましたが、その昔は地方私鉄といえども自社の環境に合わせた新車を製造する例は、それほど多くないにせよある程度ありました。

 富士山の山梨県側の麓に広がる五湖の一つ、河口湖から富士吉田市を経て、中央本線大月に至る富士急行(2022年に分社化して富士山麓電気鉄道)は、国鉄の17m旧国電小田急からの18m級中型車を中古で導入していた一方で、3100形という2扉クロスシート車を新製するなど、用途と環境に合わせた車両を保有していました。

 

富士山麓電気鉄道(初代)が1956年に製造した3100形電車は、我が国の電車史に残る意欲作といえ、日本初の狭軌用WN駆動を採用した電車であった。車内も乗降用扉付近はロングシートとし、扉間と車端部はクロスシートを設置していた。富士山北側の麓を走る鉄道ということもあって、観光需要が大きく占めることからこうした車内設備になった。また、乗務員室に隣接した扉にはデッキが設けられ、連結面に隣接した扉は直接客室内に入れる構造とした。これは富士山登山客の利用を想定し、早朝運転の臨時列車で長時間停車をする際に、車内を保温するため連結面部の扉は締切扱とし、デッキのある扉のみを使用して客室の保温をするというユニークなものであった。3100形は2両編成2本、合計4両が製造されたが、1971年に起きた列車脱線転覆事故で3103+3104が廃車になり、その代替として5000形が新製された。(パブリックドメイン 出典:Wikipedia

 

 いずれも鋼製車ですが、サンタブルーとオーシャングリーンの2色塗りで、白帯を巻いた塗装を身にまとっていました。しかし、これらは冷房装置の装備はなく、中古車両は主に沿線の通勤輸送に焦点を当て、新製車は観光輸送を目的としたものでした。

 一方、富士山という日本を代表する観光地を沿線に抱えていたことから、首都圏からの直通運転によって集客をすることは、国鉄にとっても利益になることでした。そのため、臨時列車であるものの、戦前から直通列車が運転されていました。戦時中、この直通列車の運転は中止されていましたが第二次世界大戦終戦後間もない1950年には、早くも直通列車の運転が再開されるなど、サンフランシスコ講和条約が発効する前、すなわちGHQの統制下にあった時代の再開は、その観光資源は非常に魅力的だったといえるのです。

 1963年に国鉄は、富士急行直通の急行列車の運転を開始しました。急行「かわぐち」は、新宿−河口湖間で運転されましたが、当時は中央本線が非電化のままだった一方で、富士急行は開業時から電化されていたにもかかわらず、急行「かわぐち」は気動車での運転になりました。その際に、富士急行(当時は富士山麓電気鉄道(初代))は乗り入れてくる国鉄の急行形気動車キハ58系と同一設計のキハ58を3両用意し、急行「アルプス」と準急「かいじ」に併結されて運転するという、電化された鉄道事業者としては異例の対応をしました。

 

富士山の登山客や園周辺への観光客の需要は大きく、国鉄からの直通列車は戦前からあった。第二次世界大戦が終わったあと、1950年には早くも国鉄からの直通列車が乗り入れてきたが、1962年には急行「かわぐち」の乗り入れがはじめられた。しかし、当時の中央東線は非電化区間が多くあり、大月以西に運行される優等列車気動車が用いられた。急行「かわぐち」も急行「アルプス」などに併結される形での運行だったため、「かわぐち」は全区間直流電化された路線を走るにもかかわらず、キハ58系が充てられることになった。「かわぐち」に充てられる車両は富士急行の受け持ちになったため、全線電化された鉄道事業者であるにもかかわらず、国鉄側の事情によってキハ58を自社車両として製造した。そのうちキハ58003は両運転台車として製造されたため、キハ58系唯一の新製両運転台車であった。(パブリックドメイン 出典:Wikipedia

 

 それでも、都心から多くの観光客を乗せてくる直通列車の存在は、富士急行としても国鉄としても魅力のある存在で、優等列車を私鉄へ乗り入れさせたこと、本来であれば電車で運行したいところをわざわざコストのかかる気動車を新製してまで運行したことは、その表れと言えるでしょう。

 さて、その富士急行で運用されている電車は、新製車である3100形や国鉄から払い下げられた17m級国電である7100形が主力でした。しかし、3100形は1971年に月江寺駅付近の踏切で自動車と衝突したことを発端にした列車脱線転覆事故を起こしました。この事故では死者17名、負傷者69名という大惨事になり、3100形2両(3103+3104)が大破し廃車になりました。

 

《次回へつづく》

 

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