旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨物駅の名称 東○○、浜○○の「東」「浜」とは何?【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 わたしたちの生活を支える物流において、鉄道による貨物輸送は重要な位置を占めつつあることは多くの方がご存じのことと思います。北海道で収穫されるタマネギやジャガイモといった生鮮野菜は、農場で箱詰めにされたあと、コンテナに載せられて国内に出荷されていますが、その多くは鉄道で運ばれて私たちの食卓へ届けられています。また、飲料や酒類、ガソリンなどの石油類、さらにはネット通販の商品なども、鉄道によって運ばれています。

 これら貨物を取り扱う駅は、一般の旅客駅とは構造も施設も異なる貨物駅です。厳密には貨物だけを取り扱う駅が貨物駅で、旅客も一緒に取り扱う駅は一般駅に分類されていました。これは、国鉄時代の貨物輸送の多くは貨車一両単位で輸送されるため、全国各地に旅客と貨物の両方を扱う駅が多く存在していたためでした。

 例えば、筆者の地元である東海道本線川崎駅は、かつては旅客と貨物の両方を扱っていました。現在の川崎駅の姿から想像することは非常に難しくなってしまいましたが、1970年代まで川崎駅の東京方には小規模のヤードがあり、そこから多摩川沿いにある明治製菓(現在の明治)川崎工場の専用線が伸びていました。また、今では多くの人で賑わうショッピングモールの「ラゾーナ」は、その昔は東芝堀川町工場があり、やはり専用線が敷かれていました。神戸方にも専用線が伸びていて、東芝柳町工場(現在はキヤノン川崎事業所)があり、製品を貨物列車で出荷していました。

 しかし、これらの工場は製造拠点の移転や事業場の集約などによって徐々に規模を縮小していき、貨物輸送も1980年初めまでに廃止されてしまいます。そのため、川崎駅の貨物取扱量も減っていき、1981年には貨物取り扱いが廃止されました。

 このように、多くの主要駅では、旅客と貨物の両方を扱っていました。しかし、貨物の輸送量の減少と合理化によって1984年2月のダイヤ改正、いわゆる「ゴー・キュウ・ニ改正」で貨物輸送の大規模な合理化と輸送体系の大幅な変更によって、車扱貨物輸送が原則として廃止になると、規模の大小を問わず、大半の駅で貨物取扱を廃止し、旅客駅へと転換したのでした。

 一方、1984年2月改正以前に、貨物取扱を廃止した駅もありました。これは、開業当初は旅客と貨物の両方を扱っていたものの、旅客輸送量の大幅な増加によって旅客列車の発着が多くなり、入換作業を欠かすことのできない貨物取扱機能を分離したり、新たに近隣に貨物駅を設置して、貨物の取扱を移転させたことによるものでした。

 また、開業当初から貨物取扱線用の駅として開業したところもありました。

 これら貨物駅の名称は、意外にも多くの共通点があったのです。

 

■主要な駅に隣接、方角を冠した駅

 例えば、規模の大きい旅客駅の近傍に設置された貨物駅は、その駅の名称に加えて方角を冠した名称になることが多く見られます。これは、開業時は貨物の取り扱いを行っていたものの、旅客輸送の増加によって貨物取扱いが難しくなり、近隣に用地を確保して分離移転させたケースや、もともと駅を設置するにあたって、旅客駅と貨物駅をそれぞれ別の場所に設置していたケースが当てはまります。

 鹿児島本線小倉駅山陽新幹線も停車する、福岡県内でも有数のターミナル駅です。駅の北側には玄界灘に面した小倉港があり、港の埠頭から陸揚げされた貨物を扱うには絶好の位置にあります。しかし、小倉駅は開業当初から貨物の取り扱いはなく、代わりに小倉駅門司港方にある東小倉駅で扱っていました。

 

東小倉駅旧門司操車場に隣接していたため、九州における貨物の玄関口であった。当初は信号場、そして小荷物扱いが中心だったが、後に有蓋車やコンテナによる混載貨物を扱っていた。分割民営化後も、当駅からコンテナ貨物列車に併結したワキ50000による混載貨物輸送が行われていた。写真の奥は旧門司操車場、現在は北九州貨物(タ)駅となっているが、遠景の景色は大きく変わっていない。(©PekePON, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 小倉駅の東に位置するため、東小倉駅と名付けられ、かつてはレサ10000で組成された鮮魚特急貨物列車もこの東小倉駅を発着していました。また、国鉄の末期から分割民営化直後までは、東京の汐留駅東小倉駅間に自家用車と旅客の両方を乗せる「カートレイン」も設定されていました。東小倉駅は九州北部でも有数の貨物駅だったことがわかります。そして、小倉駅の東側付近にあるため、方角を冠して東小倉駅命名されたのでした。

 似たような例は全国でも多く見られ、東札幌駅(廃駅)や東静岡駅(現在は移転し静岡貨物駅となっている)、東青森駅などがあります。そして、どういうわけか、方角を冠した貨物駅は「東」を冠した名称が多く見られます。

 宗谷本線の北旭川駅は、函館本線旭川駅から2駅を挟んだ北側にある貨物駅です。かつては本輪西駅からタキ車を使った石油類の輸送も扱っていましたが、2012年に廃止されて以降は農産品の発送が主となり、今日でも安定的な輸送量をもっています。

 北陸本線南福井駅は、かつてはセメント輸送などで多くの貨物を扱っていました。福井駅から南に1.9kmほどしか離れていない貨物駅なので、セメント輸送が廃止されたあとも、コンテナ貨物取扱駅として、福井県に発着する鉄道貨物を引き受ける拠点駅としての性格を持っています。2021年には従来の入換作業を必要とする発着方式から、着発線荷役方式(E&S)へ移行させて、リードタイムの短縮による利便性向上と、貨物列車の運転時間の短縮による速達化を促進させました。

 

南福井駅の出入口。フォークリフトでコンテナの移動作業が行われているのがわかる。多くの貨物駅は、写真のように駅であることを示す看板があるだけで、一見すると倉庫化荷捌き場にしか見えないことが多い。(©Gazouya-japan, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 すでに廃駅になった貨物駅も多くありますが、やはり方角を冠した駅名をつけられた例が存在します。なかでも東横浜駅は、我が国の貿易の中心港の一つといえる横浜港に隣接した貨物駅で、その歴史も鉄道開業にまで遡ることができますが、同時に旅客駅とほぼ同じ位置に設けられていながら、貨物駅として独立していた珍しい例の一つといえます。

 東横浜駅はその名の通り、横浜駅の東側に設けられていました。といっても、現在の横浜駅ではなく、鉄道開業、すなわち1872年に開業した初代の横浜駅を指しています。この横浜駅は現在の根岸線桜木町駅であることは知っている人も多いかと思いますが、この時に機関車の車庫も併設されていました。この機関庫は、現在の桜木町駅のみなとみらい側にあるロータリーの位置にあたり、当時は貨物の取り扱いはない純粋な旅客駅と機関庫だったのです。

 やがて鉄道の本来の強みでもある貨物輸送も始められ、貿易港である横浜港に隣接している地の利もあって、横浜駅の貨物取扱量は順調に増加していきました。一方で、初代の横浜駅は横浜の市街地に近いという利便性はあったものの、東海道本線の延伸によって横浜以西へ直通するにはスイッチバックを強いられるという路線の構造の問題もあり、横浜駅スイッチバックを必要としない通過配線構造の駅が設置できる位置に移転しました。

 1915年に横浜駅が現在の国道1号線国道16号線高島町交差点の位置に移転すると同時に、初代の横浜駅桜木町駅と名称を変えました。同時に、初代横浜駅で扱っていた貨物については、駅の位置は変わらないものの名称を東横浜駅として分離されました。

 

横浜駅から発車する貨物列車。機関車次位にはおそらく荷物車であろう客車が、その次には二軸ボギー有蓋車が連なっている。有蓋車の荷役は、基本的に旅客駅とほぼ同じ構造のホームが必要だったので、写真のような上屋があった。その上屋は倉庫にも接続されていたようで、ここで貨物の荷捌きや保管が行われていた。(パブリックドメイン

 

 このように、駅名こそは東を冠していましたが、横浜駅は北の方へ移転していたため、厳密には東側ではなく南側にありました。しかし、元の横浜駅、すなわち桜木町駅から見れば東側にあることから、その名残として東横浜駅を名乗ったのではないかと思います。

 後に高島線や横浜臨港線も延伸されて、日本と世界の物流をつなぐ重要な役割を果たしていましたが、やがて鉄道貨物輸送はトラック輸送にシェアを奪われていき、取扱量も減少をしていきました。また、従来の海運はばら積み輸送が主でしたが、より効率性のよいコンテナへ移行していったことで、横浜港の中心は桜木町−新港埠頭−山下ふ頭から、コンテナを扱うことができる本牧ふ頭へ移転していったことから、東横浜駅の需要は減少の一途をたどります。そして、横浜市内に点在していた貨物駅の機能を集約し、コンテナ貨物に対応した横浜羽沢駅が開業すると、その役を終えて東横浜駅は信号場へ降格し、1981年には東横浜信号場が廃止されて長きにわたる歴史に幕を閉じたのでした。

横浜駅の航空写真。写真中央部、細長くS字カーブを描いているのが根岸線で、桜木町駅のホームが見える。その右上に桜木町駅のホームに「突き刺さる」ように複数の建物が見えるが、これが東横浜駅の貨物上屋だった。臨港線はもっとも海側にあり、運河を渡って新港埠頭へと続いていた。

1988年の同じ地点の航空写真。根岸線桜木町駅は大きく変わっていないが、海側にあった東横浜駅は既に廃止されていて貨物上屋は撤去されていて、線路も一分を残してほとんどなくなっている。東横浜駅跡の上方にあった三菱重工横浜造船所も跡形もなくなり、更地が広がっているのがわかる。そして、ぽつんと残されたようなドックがありが、ここには帆船日本丸が係留されている。翌年に、横浜博覧会89の会場となったあと、みなとみらい地区として急速に開発がされていった。

2009年の同じ地点の航空写真。根岸線桜木町駅はホーム上屋が変わって伸びているが、その位置は変わらない。かつて東横浜駅があった場所は駅前ロータリーとして整備され、ここから多くの路線バスが発着するようになった。そして、日本丸が繋留されているドック跡の近傍には、横浜ランドマークタワー横浜銀行本店ビルなど、超高層ビルが建ち並んで、かつての面影は殆どなくなっている。しかし、臨港線の跡は残されていて、新港埠頭へ通じる盛土の軌道敷跡や橋梁後の姿が見える。現在は「汽車道」として一般の通行が可能だ。(3枚とも国土地理院空中写真サービスより作成・出典)

 このように、主要駅の近隣に設置された貨物駅の多くは、「東」など方角を冠した駅が比較的多く見られます。やはり、主要駅のある都市近郊での貨物の需要があることと、その利便性から貨物駅が設置されたためと言えるでしょう。

 

《次回へつづく》

 

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