旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

貨物駅の名称 東○○、浜○○の「東」「浜」とは何?【終章】

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《前回のつづきから》

 

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■かつては庶民の台所を支えた「○○市場駅

 貨物駅は一般には馴染みがないため、その名称もあまり知られることはありません。それとともに、貨物駅が設置される場所は、港湾部や埠頭など一般に立ち入ることが制限されている所でもあるので、その存在すら知られることも少ないといえます。

 その貨物駅の中でも、私たちの食生活に欠かすことができない卸売市場に併設された駅が多く存在しました。

 例えば、年末になると買い出し客で賑わう光景とともに紹介されていた東京・築地にあった東京都中央卸売市場築地市場は、都民の台所を支える存在でした。今では豊洲に移転していったため、年末の築地場外市場の様子を観ることはなくなりましたが、筆者が若い頃はよくこの光景を見たものです。

 この築地市場は、主に鮮魚や青果を扱っていました。そして、鉄道の貨物輸送が全盛期の頃は、産地から築地市場に運ばれる鮮魚や青果は、殆どが貨物列車によって運び込まれていました。そこで、この築地市場には東京市場駅という貨物駅が設置されていました。

 実際は市場の中にあるため、ほかの貨物駅とは様相が異なりました。

 通常の貨物駅は、到着した貨物列車が入る着発線、荷役をする荷役線、そして入換作業に必要な機回し線や仕訳線、留置線などが備えられます。しかし東京市場駅は、着発線と機回し線だけがある特殊な配線がされていました。これは、到着した貨物列車は着発線に入るとそこで荷役がされていたためでした。

 その理由として、東京市場駅に到着する貨物は冷蔵車に積み込まれた鮮魚などの魚介類であり、到着したらすぐに冷蔵車から卸してすぐにセリにかけられたのでした。できるだけ、鮮度が高い状態でなければ魚介類の商品価値は落ちてしまうので、卸売価格を維持するためには到着してから短時間での荷役が要求されたのです。

 このように東京市場駅に到着する貨物は、できる限り鮮度を保ち、高い状態にする事が必要な鮮魚や青果だったので、通常の入換作業は必要がなく、必要最小限の線路配置になったのでした。また、貨物駅といえども卸売市場に付属した施設で、限られた敷地の中であるため、やはり最小限の設備に留められたのでしょう。

 

かつての築地市場の鳥瞰写真。円弧を描いた建物が特徴的で、都心に近い狭小な敷地に多くの建物があり都民の台所を支えていた。かつては汐留駅から支線が引き込まれていて、一番外側の赤い屋根の建物に東京市場駅があった。(©Kakidai, CC BY-SA 4.0 出典:Wikimedia Commons)

1970年代の築地市場とその周辺の航空写真。右側に弧を描いた特徴的な築地市場、その左下には浜離宮がある、浜離宮に隣接して枝上に分かれた線路と上屋があるところが、かつての汐留駅だ。その汐留駅を通り抜けるように敷かれている線路が、東京市場駅へ通じる支線で、多くの鮮魚を積んだ冷蔵車がここを通過していた。都心に近い位置に、このような広い敷地をもつ貨物駅や卸売市場があったことは、現在の姿からは想像できないだろう(写真上©

 このように、東京市場駅は貨物駅の中でも特異な存在で、特にレサ10000による鮮魚特急貨物列車の運行がはじめられてからは、九州方面からそれまで約43時間かかって到着していたのが、27時間程度にまで短縮され、これらは汐留駅に着くとすぐに東京市場駅まで運び込まれました。そして、大幅な輸送時間の短縮は、市場関係者からも歓迎されたと言われています。(出典:国土地理院空中写真サービスより一部を筆者がトリミング加工)

 

 ところで、このような卸売市場は国鉄にとって、重要な顧客となっていました。鮮魚や青果といった貨物は、市場があるかぎり欠けることがなく、安定した収入が得られる存在でした。そのため、このような駅は東京だけでなく、北は札幌市場駅から南は福岡市場駅など、全国の主要都市の卸売市場に併設させる形で貨物駅が設置されたのでした。

 しかし、ほかの貨物と同様に、これらもトラック輸送へ転換されたことで輸送量も減り、多くの市場駅は廃止されましたが、1987年の国鉄分割民営化後も存続したのが福岡市場駅でした。

1987年の福岡市場周辺の航空写真。1986年のダイヤ改正で多くの貨物駅が廃止されていき、卸売市場に直結していた貨物駅も姿を消していった中で、分割民営化後も残ったのが福岡市場駅だった。駅としては廃止されていたが、博多港駅の構内あつかいで存続はしていたものの、貨物の輸送実績があったかは調べた範囲では分からないが、筆者が福岡貨物ターミナル駅に勤務していた1991年の時点で、福岡市場駅を発着する列車の設定はなかった。その手前にあった博多港駅からはわずかながらホキ車の発着があった。(出典:国土地理院空中写真サービスより一部を筆者がトリミング加工)

 

 福岡市場駅鹿児島本線の貨物支線である、通称博多臨港線の終着駅でもありました。博多臨港線には、九州最大の貨物ターミナル駅である福岡貨物ターミナル駅もあり、本州方面からの貨物列車が数多く設定されています。筆者もこの福岡貨物ターミナル駅に勤務していましたが、とにかく貨物取扱量が多く、昼夜を問わず列車が発着し、コンテナホームには休む間もなくフォークリフトが走り回り、コンテナを積んだトラックがひっきりなしに出入りしていました。

 しかし、博多臨港線のメインはこの福岡貨物ターミナルであり、その先の博多港駅でした。筆者が福岡貨物ターミナル駅に勤務したのは1991年であり、すでにこの時点では福岡市場駅は廃止になっていましたが、博多港駅の構内扱いでその機能は保たれていました。

 当時はすでに冷蔵車や通風車といった貨車はすべて運用はなく、列車の設定もごく僅かでした。それでも、駅の機能は存続していたので、恐らくはコンテナに積載した鮮魚や青果を運び込んでいたと考えられますが、多くはトラック輸送が担っていたので、その輸送量は想像がつくところでしょう。

 1995年に福岡市場駅の機能はすべて廃止になり、1998年までに博多臨港線は福岡貨物ターミナル駅博多港駅間が廃止になりました。駅としては廃止になっていましたが、市場駅としての機能が1990年代にまで残っていたのは特筆するべきことであり、かつて鉄道貨物輸送が全盛の頃を平成の世に伝えるとともに、鉄道貨物輸送が私達の生活を支え続けてきた貴重な存在だったといえるでしょう。

 

■終わりに

 かつて、日本の物流の主役が鉄道だった頃、多くの国鉄の駅で貨物の取り扱いがされていました。それは、車扱貨物が鉄道貨物の基本であったため、鉄道で貨物を輸送しようとする場合、貨物を駅に持ち込む必要があったため、多くの駅で取り扱う必要があったのです。

 東海道本線でいえば、首都圏は品川・川崎・保土ケ谷・大船といった駅が貨物の取扱いを行っていました。また、関西圏であれば、山崎・茨木・高槻といった駅も、貨物を扱っていたのでした。

 そうした駅は、旅客も扱っていたので一般に馴染みの駅であるとともに、これらの駅がかつて貨物も扱っていたことを知る人は少なくなってきていると考えられます。また、1984年2月のダイヤ改正までに、これら多くの駅の貨物取扱は廃止され、貨物輸送も今日見られるようなコンテナ貨物による拠点間輸送へ変わり、旅客と貨物の両方を扱う駅自体が珍しい存在になったのです。

 そして、多くの貨物を扱う貨物駅も、今となってはほとんどが姿を消してしまいました。それらの駅は、一般に知られる必要はなく、職員や関係者だけが知っていればよかったので、その名称も実用本位でつけられていたと考えられます。

 それ故、主要駅から見た方角や地域を冠したり、駅が置かれた「場所」をつけたりするなど、機能的な名称が多かったのです。それは今日もあまり変わらず、いまなお現役の貨物駅でいえば、「貨物ターミナル駅」といった国鉄時代にコンテナ貨物を主体に扱う駅につけられた名称が多く存在しているのも、やはり実用本位からのことだといえます。

 いずれにしても、貨物駅の名称をたどるだけでも、我が国の鉄道貨物の歴史を紐解くことになり、非常に興味深いものがあると考えられるのです。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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