旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

過酷な通勤輸送を支え続け40年の功労車・東急8500系【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 東急田園都市線といえば、何を思い浮かべるでしょうか。

 閑静な住宅街に通じる鉄道路線と思われる方は、きっと筆者と同じ年代か、それよりも上のご先輩方でしょう。しばしばテレビドラマの舞台になることもあり、その知名度はきっと全国区ではないでしょうか。

 一方で、不名誉な面でもよく知られた鉄道路線といえます。首都圏でも有数の混雑路線で、その混雑率は2017年度で185%を記録するなど、東京メトロ東西線に次ぐ在京私鉄では第2位、JRを含めても10位以内にランクインする路線です。

 実際、筆者も30代の頃はこの田園都市線沿線に住んでいて、通勤で利用した経験があります。朝のラッシュ時間帯に上り列車に乗ると、もはや新聞など読むことはできなず、体をよじらないと乗ることができないほどの混雑ぶりで、「痛勤」という言葉がピッタリと当てはまっていました。

 田園都市線で最も混雑が激しくなるのは「宮宮」と通称される宮崎台−宮前平間でした。筆者は残念ながらこの「宮宮」の片方、宮前平から上り列車に乗車しましたが、到着した列車は既に恐ろしいほど人が「詰め込まれている」ところへ乗るのも一苦労、乗らなければ仕事に行けないので僅かな隙間を見つけて「中に押し入る」ようにして乗ったものです。そして、宮崎台でもさらに人が乗ってくるので、まさに「すし詰め」とはこのこと。手も足も動かすことが困難で、下手をすれば体を捻ったまま乗り続ける羽目になったものでした。

 これは、東急の掲げた「多摩田園都市構想」に基づいて、川崎市北部から横浜市北部にかけて開発事業を進めた結果でした。田園都市線を建設する予定線沿線の土地を購入し、鉄道の開通と一緒にその土地の開発を進め、住宅を建ててはこれを分譲しました。そして、駅周辺には商業施設を自ら開発しながら他の事業者にも販売、結果として田園都市線沿線の住民は東急から家を購入し、駅までは東急のバスを利用し、通勤通学などで出かけるときには東急の鉄道を利用、買い物は駅周辺の東急系列の商業施設で済ませるという、まさに東急自身とその系列に生活のほとんどを利用するという、私鉄の沿線開発手法のお手本のようなものなのです。

 蛇足ですが、田園都市線の各駅から発着する路線バスは、ほとんどが東急バスということはご存知のことと思います。公営交通である川崎市バス横浜市営バスも乗り入れてきますが、その比率は1割程度でしょう。また、路線の再編や小田急線の駅を結ぶ小田急バスも乗り入れてきますが、基本的には東急バスと共同運行しています。

 駅前にはタクシーも客待ちをしていますが、これもまたどこの会社でもよいというわけではありません。田園都市線の各駅前で営業できるタクシー会社は、東急から承認を受けた神奈川都市交通という会社がほぼ独占しています。この会社のWebページをご覧いただくとわかると思いますが、社紋はどこかで見たことあるかもしれません。この会社はかつては東急の傘下に入っていました。第二次世界大戦前に東横タクシーと商号を変え、戦時中には神奈川県から陸上交通事業調整法などに基づいて統合することを、神奈川県下のタクシー会社に命令されました。横浜・川崎地区のタクシーは、東横タクシーが他社を統合して規模を拡大しました。東横タクシーは東急の傘下にあったので、その背後にはあの五島慶太氏があったことは誰の目にもわかることでしょう。そして、終戦直後の1945年9月になって統合が完了し、商号を神奈川都市交通と改めました。

www.toshikoutsu.co.jp

 当時は東急の傘下にある会社であるため、社紋も大東急時代の円に軌条の断面、そこから両側に羽が広がるデザインを踏襲し、軌条を「都市交通」の英文頭文字である「T」に置き換えたものを採用しています。ですから、古くからの東急を知る人にとって、この会社の社紋を見ると「東急系列ですか」と聞かれたものです。筆者もこの会社で乗務員をしていたことがありますが、大東急時代を知る母からも、名札の社紋を見て東急に入ったと勘違いされたものでした。

 現在では東急の傘下から離れていますが、統合時に東急から役員が派遣されていたことや、五島昇氏が取締役であった経緯もあり、資本関係こそないものの傍系会社という存在でもあることから、多くの利用者が見込まれる田園都市線の駅構内でのタクシー営業は、神奈川都市交通のみが行うことができるのです(例外もありますが)。ちなみに、筆者はハイヤーの乗務員でしたので、駅での営業経験はありませんが、お客様の要望で田園都市線の駅構内に乗り入れたところ、タクシーの乗務員がやってきて「ここは入っちゃダメだろ」なんてお叱りを受けたことがります。ハイヤーはタクシーのように行灯がないので、どこの会社の車かわかりにくいのですが、ドアに小さく描かれた社紋を指し示すと、同じ会社でしかも乗客が乗っていたこともあって、その乗務員はバツが悪そうにしていました。

 蛇足が随分と長くなってしまいましたが、それだけ東急にとって田園都市線は重要な路線であり、沿線住民は鉄道の乗客に、そして商業施設の顧客になり、鉄道を補完する交通機関もグループ会社と傍系会社を利用する、いわばお金が集まるシステムだといえるのです。

 そんな首都圏有数の混雑路線を支え続けてきたのが、このお話の主役である8500系でした。

 

宮崎台駅を爆走で通過していく急行運用の8614F。既に排障器としてのスカートが取り付けられているが、車体断面は初期製造車そのものだった。(8614F 宮崎台 2005年4月30日 筆者撮影)

 

 8500系は1977年の開業に向けて建設していた新玉川線(当時)と、営団地下鉄(当時)半蔵門線相互直通運転を行う際に、両社の車両規格を統一させるために、8000系の仕様を改設計して登場したマイナーチェンジ車でした。

 そもそも新玉川線国道246号線の地下を走る鉄道路線で、軌道線だった玉川線の代替路線として建設されました。地下線として開業させる計画だったため、東急は運輸省(当時)が定める地下鉄線規格であるA-A規準に準拠した車両として8000系を製作し、年々混雑が激しくなっていく中で18m級中型車では太刀打ちできなくなっていた東横線の輸送力を増強させるために投入していました。

 東急としては、この8000系を引き続き製作して、新玉川線開業時に投入する計画でしたが、既に述べたように営団地下鉄半蔵門線との相互直通運転が決まると、両社との間で車両規格が定められたのです。

 

《次回へつづく》

 

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