旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

68年前の「国鉄戦後五大事故」の一つ 宇高連絡船「紫雲丸事故」

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 

 2月の末に更新して以来、ご無沙汰しております。

 2月の初めに頸椎の手術を受け、その間、療養に専念しておりました。5月に入って主治医から「ふつうの生活に戻ってよい」とのお許しをいただき、体調もぼちぼちと戻ってまいりました。

 手術と簡単に書きますが、想像以上に体力を奪われるものでした。以前にも、全身麻酔の手術を受けたことがありますが、このときは1時間ほどの簡単なものでした。その経験から、「今回も楽勝♪」などとたかをくくっていたのが間違いの元。今回の手術は4時間半のロングランになり、その分だけ体力も奪われてヘロヘロでした。

 ブログの執筆も手術前のようにとは参りませんが、ぼちぼちと書いていけたらと思います。

 

 さて、今日(5月11日)はどのような日かご存知でしょうか。

 歴史を紐解くと、1970年に日本人が初めて、堺最高峰のエベレスト(チョモランマ)に登頂した日です。また、さらに遡ると、1874年には東海道本線大阪駅神戸駅間が仮開業した日でもあります。

 一方、災害や事故もあった日でもあります。

 鉄道、こと国鉄の歴史を語る上で、避けても通れない日の一つです。

 第二次世界大戦後に発足した国鉄は、実に波乱に満ちた歴史を紡いできました。その中でも、「国鉄戦後五大事故」は大勢の犠牲者を出したことで、国中に大きな衝撃を与えました。

 その「国鉄戦後五大事故」とは、次の事故を指しています。

 

桜木町事故 根岸線(当時は京浜線)横浜駅桜木町駅間で発生した車両火災事故(1951年4月24日 死者106人、負傷者92人)

・洞爺丸事故 青函連絡船函館港沖で台風15号の直撃によって発生した船舶沈没事故(1954年9月26日 死者1430人、うち洞爺丸単独では1155人)

・紫雲丸事故 宇高連絡船・宇野−高松間を航行中、濃霧による視界不良と航路逸脱を原因とする船舶衝突事故(1955年5月11日 死者166人、負傷者296人)

三河島事故 常磐線三河島駅構内で発生した列車多重衝突事故(1962年5月3日 死者160人、負傷者296人)

鶴見事故 東海道本線鶴見駅新子安駅間で発生した列車多重衝突事故 1963年11月9日 死者161人、負傷者120人)

 

 いずれも死者100人以上という多数の犠牲者を出した事故です。今日のように、様々な安全基準や保安設備が発展していったのは、これらの事故が契機となったといえます。

 

 さて、今回は1955年に起きた、宇高連絡船紫雲丸事故のお話です。

 宇高連絡船とは、かつて宇野線宇野駅予讃線玉津駅の間を結んでいた、国鉄が運航する鉄道連絡船でした。本州と四国を結ぶ重要な航路であり、同時に鉄道を連絡運輸するという役割を担い、本州と北海道を結んだ青函連絡船と並んで、全国あまねく広がる鉄道網の一つでした。

 そのため、宇高連絡船には「車載渡船」と呼ばれる特殊な構造をした船舶が配船され、船の中には鉄道車両を載せるための軌条(レール)が敷かれるなど、ほかの船舶にはないものでした。

 さて、1955年の今日(5月11日)、宇高連絡船の車載客船「紫雲丸」は、6時40分に高松港を出港しました。しかし、この日の天候は曇で、濃霧のため視界が悪く、出港はギリギリのところで判断されたとされています。

 この日の「紫雲丸」には乗客781人、乗員60人が乗っており、乗客の中には修学旅行に出かける近隣の小中学校の児童生徒が乗っていました。早朝に出発することは、今のように新幹線といった高速鉄道もなく、航空機での移動も一般的なかった時代ではごくふつうのことであったとされていたようです。

 高松港を出港した「紫雲丸」は、何もなければ11,8海里、メートル換算で21.0kmの距離を約1時間後に本州側の宇野駅に到着するはずでした。

 ところが、出港してまもなく霧は更に濃くなり、「紫雲丸」に相対する下り便として運航していた車載渡船「第三宇高丸」のブリッジからは、指定が100mにまで落ちたと記録されるほど視界が悪化しました。

 そのような船舶を運航するには悪条件の中、「紫雲丸」は高松港を出港してからわずか16分しか経っていない6時56分に、下り便として運航されていた「第三宇高丸」と衝突、「第三宇高丸」は「紫雲丸」の右舷機関室に70度の角度で船首を突っ込む形でぶつかったのです。

「紫雲丸」は機関室に「第三宇高丸」の船首が突っ込んできたため、機関室が損傷しました。そのため、復水機や主配電装置が爆発したことで、船内への電源供給が絶たれました。そして、このことは、沈没を防ぐための水密扉が作動しないという致命的なことにつながり、衝突部から浸水も始まっていたため、「紫雲丸」の沈没は決定的となったのです。

「紫雲丸」に突っ込んだ「第三宇高丸」は特に大きな損傷がありませんでした。しかし、「紫雲丸」の損傷から沈没は逃れないと判断し、機関を前進全速で「紫雲丸」を押し続けたのでした。これは、「第三宇高丸」離れてしまうと、「紫雲丸」の破損部から浸水が激しくなることで沈没が早まってしまうことと、「紫雲丸」に乗船していた乗客乗員の救助を目的としたものでした。

 しかし「紫雲丸」は浸水により、急激に左舷側に傾いていきます。船内は電源の供給が絶たれたことで照明がなくなり、ただでさえ不案内な船内を暗い中で脱出を試みるのは想像を遥かに超える難しいものだったと推測できます。

 加えて、この「紫雲丸」には、修学旅行の児童生徒が乗船していました。修学旅行といえば、小学生は6年生、中学生は3年生ですが、こういう非常時はやはり子どもであり、自力でなんとかするということは難しいものがあるといえます。

 また、「紫雲丸」に乗船していた修学旅行途中の児童生徒は、帰路についていたこともあって自宅で帰りを待つ家族のために買った「お土産」を失いたくないと大事に抱えたことや、我先にと脱出を急ぐ大人たちに揉まれて思うように身動きがとれなかったことで、早期の脱出を困難にさせた結果、多くの児童生徒が命を落としました。さらに付け加えれば、海難事故の時に命を落とさないための唯一の手段である救命胴衣が、児童生徒に行き渡らなかったり、使い方がわからなかったりし、救命胴衣を身につけるまもなく海に放り出されたりした子どももいたそうです。

 この事故で、乗客168名が死亡しましたが、そのうち100名が修学旅行の児童生徒だったという痛ましい事故で、日本中に大きな衝撃を与えたのは言うまでもないでしょう。

 この事故の責任を取って、当時の国鉄総裁が辞任するまでに至りました。また、この事故を契機として、安全に関する規則が厳しくなり、特に海上保安庁が出す停戦勧告は厳しく運用され、以後、宇高連絡船では瀬戸大橋の開通による終航まで、一度も事故を起こしませんでした。

 

事故で沈没した紫雲丸。損傷の激しさから、かなりの衝撃でぶつかったことがわかる。(パブリックドメイン

 

 事故で尊い命を失った100名の子どもたちと、その子どもたちを一人でも多く救おうと船内に残った8名の犠牲者(引率教員5名、付き添いの保護者3名)を悼み、供養塔などが建立されています。また、この悲劇を後世に伝える施設もつくられました。

 

 筆者は、元鉄道職員であり、現役の教職員であった頃、京都の三十三間堂を訪れたことがあります。中学生の時、修学旅行で訪れたこの寺院が強烈に印象に残っていたので、妻と一緒に出かけた際に拝観しました。

 本堂にずらりと並んでいる1001躯の千手観音立像は、非常に見事であり、この記事をお読みの方の中にはご覧になったこともあると思います。厳かで美しい観音像を見終えたあとは、本堂の裏手の通路を通って出ることになりますが、このとき、ある小さな位牌が筆者の目に止まりました。

 その位牌は「紫雲丸事故」で犠牲となった人を弔うものでした。

 あまりにも小さく、そして千手観音立像を拝観したあとの興奮から、恐らく見逃してしまいがちになるであろうその位牌は、筆者を引き寄せるような感覚でした。

 この「紫雲丸事故」の犠牲者を弔う位牌のことは、三十三間堂の公式ウェブサイトでも語られていませんし、ネットで検索してもなかなか出てこないでしょう。しかし、京都から遠く離れた海で起きた悲惨な事故は、間違いなく大きな衝撃を与え、由緒あるこの寺院でも供養されてきたのです。

 筆者はこの位牌を見るやいなや、立ち止まってそっと手を合わせました。

 安全輸送に携わった元鉄道職員として、大事な子どもたちを日々預かり、安全に何事もなく親御さんの元へ帰すことを最大のミッションとする教職員として、この位牌は何かを語りかけてきたような気がします。

 

京都の名所の一つ、三十三間堂。この本堂の裏の通路に、紫雲丸事故の犠牲者を供養する位牌が安置されている。(©Zairon, CC BY-SA 4.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

 21世紀も20年以上が経った現在、公共の交通機関は安全で安心して利用することができます。ATSやATC、さらにはATOの実用化といった鉄道の保安設備の発展と信頼性の向上は、こうした多くの人の犠牲の上に成り立っていると筆者は考えます。ですから、何をもってしても安全は何よりも最優先されるべきものであり、技術が発達したからといって、それを過信することなく日々の努力と慎重さが求められるものだと確信しています。

 また、この「紫雲丸事故」から2か月後には三重県津市の海岸で、中学生の集団水難事故が起こりました。この二つの痛ましい事故を契機に、学校にプールの設置が広まったとされています。また、国会でも取り上げられ、教職員の水泳指導力不足やプール未設置の学校の問題が取り上げられました。(実際、筆者が卒業した中学校には、当時はプールがありませんでした)

 

 鉄道の歴史は事故の歴史ともいえると思います。かつて、多くの犠牲を伴う痛ましい事故があり、それを防ごうと多くの人が努力をしてきました。その成果もあって、今日では安全で安心して利用できる交通機関に成長しました。

 しかし、先にも述べたように、これを過信してはならないとも考えます。「安全神話」なんていうものはなく、それを実現させているのは人であり、資質能力の向上が求められているといえるでしょう。また、それは、どの職種でも共通していえることだといえます。

 

 末筆になりましたが、この事故でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

 

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