《前回からのつづき》
8500系は1974年から長きに渡って増備が続けられたことから、途中幾度となく細部の設計が変更されています。特に8090系が製造された1980年の第12次車以降と、9000系が製造された第18次車以降で、外観からもわかる変更が見られました。
8090系は日本の鉄道車両として初めて、航空機の設計で用いられる有限要素法を使ったコンピュータ解析による車体設計がなされました。この設計手法によって、従来は直線的で機能性を重視したものが、ステンレス鋼の使用量を減らしつつ強度を保たせたものへと変わりました。この設計方法によって、普通鋼製の車体と比べて軽量化を実現できたステンレス車両でしたが、さらに軽量化を実現させつつ、曲線も取り入れることが可能になるなど、大きく変化したのです。
8090系は同じ8000系の一員ですが、その外観は大きく変化しました。車体裾部に曲線の絞りがあり、上方に向かって車体幅が僅かに絞られていく構造は、かつてのモノコック車体を採用した5000系にも通じるものでした。制御方式は8000系と同じ界磁チョッパ制御で、主制御器や主電動機といった電装品はほぼ共通していましたが、その外観からはまるで別系列といっていいほど大きな変化をしたのです。
8500系も第12次車以降では、8090系に通じる設計変更がされています。とはいっても、すべてを変えたのではなく、車体断面は従来の8500系と同じ垂直であり、窓下腰部にはコルゲート版が取り付けられるなど、見た目ではあまり変化が感じられません、しかし、雨樋部分は第11次車までは直線的であったのに対し、第12次車以降ではわずかにカーブがつけられ、屋根上の塗り部分もわずかに狭められていました。
1975年から製造が始められた8500系は、最終増備車である8642Fが製造された1991年まで、16年という長期に及んだ。この間、有限要素法を用いたコンピュータ設計による軽量車体となった8090系(広義の8000系の一員)や、VVVFインバータ制御を採用した9000系が登場した。田園都市線で運用する車両を統一するためか、新形式が登場しても、8500系の増備は止まることはなかった。しかし、新しい設計方法の開発は、8500系にも影響を与えることになり、第12次車からは幕板と屋根部の処理が変更されるなどの変化が見られた。(8500系・8631F たまプラーザ 2018年7月26日 筆者撮影)
第17次車以降は、同じ時期に登場した9000系の設計を踏襲しました。9000系も軽量車体構造を採用していましたが、8090系のような曲線を取り入れた設計ではなく、直線的な設計に回帰しています。しかし、客室内の天井は冷房ダクトを内蔵した平天井とし、扇風機に代わって軸流ファンになるなど、当時の最新の室内デザインになりました。外観も、幕板部に滑らかなカーブがつけられ、車体断面も従来車とは少し異なるものへとなっています。
8500系は中間電動車であるデハ8700、デハ8800は100両を超えて製造されました。そのため、番号を表示する銘板には本来であれば「8771」「8890」と書かれるところを、100両を超えた車両は「0701」「0803」という具合になりました。いわゆる「インフレナンバー」と呼ばれるもので、同じ形式であるのに番号表示が本則とは異なる方法になったのも珍しい例でした。
10両編成37本、合計370両の8500系が田園都市線で活躍する一方、最終増備車となる8642Fは田園都市線に配置されるのではなく、新製時から東横線に配置されていました。登場当時は8両編成で、M2c−M1−T−M2−M1−T−M2−M1cで組成されていました。この8642Fが東横線で走った最後の8500系で、1989年から運用に充てられ、東横線を利用して通勤通学をしていた当時の筆者も何度も乗ることがあり、8000系とは少し違う面白さを楽しんだものです。そして、この8642Fは8500系の中でも、「異端車」として知る人も多いことでしょう。
実際、筆者が通勤通学で東横線を利用していましたが、8642Fに乗ってみると、外観は8500系ですが、車内は9000系とほぼ同じだったのです。これは、1986年以降に登場した8637Fから採用されたもので、恐らくは当時量産が続いていた9000系と部品を共通化させたものによることと推測されます。座席も9000系と同じ3人と4人の間に仕切りがあり、スタンションポールも設置されていました。天井も平天井で扇風機ではなく軸流ファンが設置されているなど、より近代的なものになっていました。それでも、主電動機から発する音は甲高い特徴のあるもので、「古くて新しい」電車などと思ったものです。
1980年代の終りまでに8500系はごく一部を除いて長津田に配置され、激しい混雑で有名にもなっていた田園都市線の輸送を担いました。また、これまでに中間に封じ込めになっていた8000系は中間車の増備とともに差し替えられ、捻出された8000系は地上線へと戻っていき、東横線や大井町線で運用される編成を組み戻されていきました。
田園都市線の主力となって走り続ける8500系は、全編成が10両編成となったことで、長津田配置の車両だけでも370両を超える大所帯となり、営団からやってくる8000系も加えて沿線の人々を運び続けていました。半蔵門線が三越前から水天宮前まで延伸したのが1990年で、これで田園都市線・新玉川線・半蔵門線は一応の完成をみました。しかし、1985年の運輸政策審議会答申第7号では、「『東京11号線』(=半蔵門線)は錦糸町・押上を経由して松戸に至る」とされていました。すなわち、水天宮前の延伸では終わることはできず、さらに東に進めることが求められていたのです。当時の営団地下鉄は国と東京都が出資する特殊法人で、組織の形態などは国鉄とは違うものの、国の意向には逆らえませんでした。1993年にこの答申第7号に基づいて水天宮前−押上間の第1種鉄道事業免許を取得、同年中には建設が始められました。
田園都市線と切っても切れない関係にあるのが地下鉄半蔵門線である。開業当初は極端に営業距離が短かったため、自社の車両は製造せず東急から借用して列車を運行していた。そのため、8500系は渋谷からそのまま半蔵門線へ乗り入れ、東急の車両を使った営団の列車という変則的な運用がされた。後に永田町まで延伸され、鷺沼に検修施設ができるとようやく8000系を製造し、半蔵門線と新玉川・田園都市線へ乗り入れる列車に充てることになった。8500系は既に過去のものとなった2023年、草創期の田園都市線・半蔵門線を支えたこの車両も、後継となる18000系の増備とともにその役目を終えようとしている。(営団8000系・8102F たまプラーザ 2018年7月26日 筆者撮影)
《次回へつづく》
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