《前回からのつづき》
■24系登場と同時に製作されたマヤ24、0,5トンの荷物室を追加したカヤ24
1873年に24系の製造がはじまると同時に、電源車として登場したのがマヤ24でした。マヤ24には直列6気筒・排気量31リットル・インタークーラーターボ付きのDMF31Z-Gディーゼルエンジンと、出力300kVAのDM95発電機のセットを2基搭載し、三相交流60Hz・440Vの電力を編成全車に供給できる性能をもっていました。
20系の主力となったカニ21では、DMF31S-GとPAG1を組み合わせた発電セットを2基搭載していた点ではほぼ同じ構成でしたが、主機関はDMF31S-Gでは370PSであったのに対し、マヤ24に搭載されたDMF31Z-Gは430PSとエンジン出力自体が強化されました。また供給される電力も、カニ21では三相交流600Vであったのに対してマヤ24では三相交流440Vとされました。
マヤ24が装着した台車は、枕ばねに金属コイルばねを使ったTR54Cでした。この台車は10系軽量客車で採用されたTR50系列に属し、ペデスタル式軸箱支持でプレス形成台車枠をもった軽量台車です。この台車は枕ばねを空気ばねに変えたTR55とともに、20系にも装着されたものでした。14系以降はこのTR55とほとんどかわらないものの、ネジ類を新JIS規格に改めたTR217を装着したのに対し、マヤ24は車両重量の関係から金属コイルばねを使い、カニ21などの電源車にも使われて実績のあるTR54を装着したのでした。
また、マヤ21などでは発電装置を監視操作する検修掛が乗務し、発電セットの作動状態を監視したり操作したりしていたため、技術員室が設けられて制御操作盤などが設置されていましたが、マヤ24では発電装置は自動化されたため、技術陰湿は省略されました。
さらに、マヤ24では製造当初は新聞輸送などを考慮しなかったため、荷物室は設置されず形式も事業用車を示す「ヤ」が設定されたのでした。
後年、マヤ20でも新聞輸送を実施することになり、荷重0.5トンの荷物室が追加されたことで自重も増加し、形式をカヤ24と改められましたが、荷物車を示す「ニ」に変えられることはありませんでした。
製造当初はマヤ24として電源供給機能のみの職用車として登場したが、新聞輸送に対応するため荷重0.5トンの荷物室を追加してカヤ24となった。塗装は青20号と白帯で、テールサイン周りは白1号で縁取りされていたが、カニ24のような「ひげ」の飾りはない。(©TRJN, CC BY-SA 4.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)
■24系の電源車の真打ちカニ24
24系は1973年から製造が始められましたが、その下期にはマイナーチェンジが施された24系25形へ移行しました。これは、東海道・山陽新幹線の博多延伸開業を控えていたことと、航空網の発達と大衆化によって長距離寝台列車の利用客の減少が見込まれていたことなどにより、それまでB寝台の標準である三段式では居住性が悪く、列車の商品力に乏しくなることや、競争力利用者減少に対して供給過剰になることから、定員そのものを見直し二段式に改められたのが24系25形でした。
そのため、24系は製造開始後ほどなくして中止になり、24系25形に移行していったのです。そして、24系25形の製造開始とともに電源車として登場したのがカニ24だったのです。
カニ24は1974年から、全部で25両が製造されました。発電装置はマヤ24と同じ、DMF31Z-GとDM95を組み合わせたユニットを2基搭載し、三相交流440Vを客車に供給できる能力を備えていました。
一方、マヤ24では後年になって新聞輸送のために荷重0.5トンの荷物室を追設したのに対して、カニ24では製造当初から荷重3トンの荷物室を備えていました。そのため、マヤ24では車体長が17,000mmであったものを、1,500mm延長して18500mmになりました。
カヤ24をベースに本格的な荷物室を追加して登場したカニ24は、25形の新製とともに増備されたため形式に「24」を名乗りながらも、帯はステンレスに変わった。テールサインの周りは白1号の縁取りがあるが、特徴的な「ひげ」の帯も追加されている。折妻で曲線を基調としたデザインは、先代のカニ21に通じるものがあった。(寝台特急「はやぶさ」の最後尾につくカニ24 田町ー品川 1987年5月 筆者撮影)
車体の最後部は折妻で、連結解放の作業時に操車掛の作業性と安全性に配慮した構造でした。窓はほぼ同じサイズの窓が3枚で非貫通でした。中央部窓下にはテールサインを表示できる小窓も設けられ、その周りは白で縁取りがされ、さらに25形に属するため飾帯はステンレスで、アクセントとして「ヒゲ」もつけられていました。
1次車である1〜8には後面下部に妻面を延長した形のマイクロスカートがありましたが、2次車である9〜25ではマイクロスカートは省略されました。
荷物室の荷重が増えたこと、車体を延長したこともあって車両重量が増えることから、マヤ24で装着していたTR50系列のTR54ではなく、電車用に開発されたDT21系列に属するTR66Bが採用されました。この台車は枕ばねに金属コイルばねを使っていますが、TR54では1個であるのに対して、2列の金属コイルばねを装着していました。また、軸箱支持はウィングばね式で、大重量を支えることができる構造をもっていました。
カニ24は24系25形で運行される寝台特急に連結されて、客室内を始めとして電源を供給する役割を担いました。北は青森から、西は西鹿児島(現在の鹿児島中央)に至るまで、寝台特急が運行されるところで見ることができたのです。
しかし、国鉄分割民営化後の1987年に開通した青函トンネルは、24系25形の活躍範囲を更に広げることになります。上野−札幌間では「北斗星」が、さらに1989年からは大阪から日本海縦貫線を経由して札幌間を「トワイライトエクスプレス」が運行されるようになりました。
北海道内に乗り入れることで問題になったのが、冬季の厳しい気候でした。冬の北海道の気候は、本州以南とは比べものにならないくらい非常に厳しく、中途半端な対策では車両故障などを引き起こして列車の運行に支障をきたしかねません。
そこで、「北斗星」の運用に充てられる9両に対して、土崎工場(現在の秋田総合車両センター)で酷寒地仕様へ改造が施され、500番代に改番されました。他方、「トワイライトエクスプレス」の運用に充てられるカニ24は、塗装を専用の深緑をベースにしたものへと変えられましたが、特に車番はかわりませんでした。しかし、北海道内に乗り入れることから、JR東日本とJR北海道が保有したカニ24 500番代と同様に、酷寒地仕様に改造されました。
青函トンネルの開通とともに新たに首都圏対北海道管の寝台特急として設定された「北斗星」用の車両は、冬季の北海道における過酷な環境に対応するため、耐寒耐雪構造に改造された。電源車のカニ24も、発電機室に外気を取り入れるルーバー窓が設けられていたが、500番代化への改造に際して*1発電用エンジンを更新する際に埋め込まれたことでスッキリとした外観に変わった。(写真:AC)
《次回へつづく》
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*1:読者の方から誤りをご指摘いただきました。お詫びして訂正いたします。