《前回からの続き》
そもそもEF60形は、貨物用機として設計された機関車でした。貨物用機は高速性能よりも牽引力を重視した設計でした。これは、貨物列車は0km/hから引き出すときに、重量が重いので強いトルクが必要になります。そのため、主電動機と動輪軸の歯車設定は、主電動機1に対して同輪軸は大きく取ることになります。この設定では主電動機の回転に対して、動輪軸の回転は遅くなりますが、その分だけトルクは大きくなるのです。
EF60形はこのような貨物列車を牽くのに適した歯車比が設定されていたにも関わらず、ブルートレインのような長距離を連続して高速で走る運用に充てられたのです。あまり適切ではない例かもしれませんが、重量挙げの選手が、陸上競技の短距離走を走るようなものだといえるでしょう。
この不向きな運用により、EF60形500番台は走行中にフラッシュオーバーを頻発させてしまいました。本来であれば最高運転速度が65km/hで走行する貨物列車を牽くために特化した性能であるにも関わらず、その速度を超える90km/hほどで走ることが常態化していたことで、主電動機の回転数も早い状態が続き、最後はそれに耐えきれなくなり損傷してしまったのです。
高速性能に優れるEF58形が担った運用を、低速で牽引力重視の性能をもったEF60形に、寝台特急の運用を充てたことには疑問を抱くところでしょう。これは推測ですが、国鉄が見ていたのは瀬野八を単機で越えることができるトルク力と、設計上の最高運転速度だけを見ていたのではないかと考えられます。もし、定格速度も見ていたなら、このような不向きな機関車を充てることはしなかったでしょう。
そしてもう一つは、高速列車を牽くのに適した新性能直流電機の手持ちがなかったことが考えられます。寝台特急のような高速列車を運転するのに適したEF65形は、1965年の登場まで待たなければならず、また、当時国鉄が運用していた高速性能に優れた新性能電機の旅客用機はEF61形だけで、それもたった18両しか製造されていない少数機であったことから、運用を増やすことも難しく、暖房用の蒸気発生装置を搭載していたため、旧型客車などで組成された荷物列車の運用が優先されたことで、候補から外されてしまったのではないかと考えられるのです。
山陽本線でコンテナ貨物列車を牽くEF60形。牽引力重視の低速機であるEF60形は、車扱貨物が中心だった時代は、最高運転速度が65km/h〜75km/hであり、それも連続して高速走行することはなかったため、十分に対応できる性能であった。しかし、コンテナ貨物列車は拠点間輸送方式であるため、連続して高速運転をする必要があった。コキ5500形で85km/hとなるので、高速性能に難があるEF60形にとって過酷な運用だったことが想像できる。より高速性能をもった汎用機であるEF65形が出揃うまで、このような運用が組まれていたのだろう。(©Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)
このように、EF60形が本来の力を発揮したのは、全長1000km以上mもある走行区間の中で、山陽本線の瀬野八を越えるときぐらいなもので、後はEF60形にとってはかなりキツい運用だったと想像できます。
加えて、EF60形500番台に乗務してハンドルを握った機関士も、いつフラッシュオーバーを起こして故障するかもわからないので、相当、神経を遣っていたはずで、その苦労が想像できるでしょう。
この綱渡りのような運用は、僅か1年で終わることになります。1965年になると、EF60形よりも高速性能に優れたEF65形が登場し、寝台特急用として500番台P形が製造されて、この運用に充てられることになりました。
《次回へつづく》
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