旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

1984年の生田駅を通過する小田急ロマンスカー【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 いつかは乗ってみたいと思う列車はあるでしょうか。筆者の世代であれば、子どもの頃にはブルーに白の細い帯を巻き、夜通し走り続けて翌日に目的地に送り届けてくれる寝台特急ブルートレインがもっとも大きかったと思います。残念ながら、今の日本の鉄道では、夜通し走り続ける夜行列車はほとんどなくなり、かろうじて東京と四国の高松を結ぶ「サンライズ瀬戸」か、山陰の出雲市を結ぶ「サンライズ出雲」だけになってしまいました。

 夜行列車以外となると、今でも様々な列車が運行されています。とはいえ、子どもたちに人気の列車はといえば、今は新幹線が多いのかもしれません。

 筆者が幼い頃の新幹線といえば、東海道・山陽新幹線を走る0系でした。いえ、0系しか選択肢がなく、1983年になってようやくシャークノーズと呼ばれるシャープなデザインの先頭車と、二階建て車両が売りの100系が登場したくらいでした。ですから、新幹線は速い乗り物だけど、あまり興味を抱くようなものではなかった記憶があります。

 在来線に目を向けると、国鉄の特急列車はどれも同じでした。クリーム色に窓まわりに赤い帯を巻いた485系や183系とそのファミリーは、全国どこでも見かける存在だったのです。ですから、その車両に乗るというよりは、その愛称の列車に乗ってみたいと考えるほうが正確だったかもしれません。

 ところが、私鉄となると話は違いました。

 鉄道事業において、最大かつ唯一の「商品」」は、線路上を走る列車です。国鉄との、ときには同業の他社と乗客を獲得する競争を意識すると、自ずとその商品の質を高めていかなければなりません。もし、国鉄や他社よりも質の劣る商品であれば、当然、利用客はより質の高い方を求めて流れてしまいます。

 その商品の室は様々で、いかにして速く走らせ短い時間で乗客を運ぶのか、それとも乗り心地がよく車両を他社よりも高い質をもつものにするのか、さらには国鉄や他社と比べて運賃や料金を低くするかなど、あらゆる観点から商品づくりをしなければなりません。

 小田急電鉄の場合、新宿駅小田原駅、さらには箱根登山鉄道を介して名高い観光地でもある箱根を結んでいます。もちろん、都心と、そのベッドタウンである東京都多摩地域や、神奈川県県央地区との間の通勤通学輸送を担っているので、そちらの面でも力を入れなければなりません。

 新宿駅小田原駅間では、かつての国鉄時代は直接的な競争相手ではありませんでした。国鉄は路線単位での列車運行を原則としていたため、たとえ隣り合っていても、線路配置でつながっていたとしても、他の路線へ乗り入れる列車の設定は原則として実施していませんでした。ところが、分割民営化で設立されたJR東日本は、当初は国鉄時代の運行形態を維持していましたが、2001年になるとその原則を破って湘南新宿ラインを開業させると、より速達性の高い通勤列車である快速急行を設定するなどして、通勤通学輸送に力を入れました。

 とはいえ、小田急といえばロマンスカーであり、今も昔も、小田急にとって一番の商品であることには変わりません。そして、子どもから大人まで、ロマンスカーに乗ってみたい、これに乗って箱根を旅してみたいと思うのは、今も昔も変わりないようです。かくいう小田急沿線で育った筆者の妻も、ロマンスカーには特別な感情のようなものを抱いているようで、距離は短くても乗ってみたい列車だというほどです。

 

連接台車を本格的に採用し、流線型の前面形状と軽量車体をもった3000形SE車は、小田急にとって本格的な特急専用車として登場した。オレンジバーミリオンを基調に、白とグレーの帯を巻いた配色は、ロマンスカーとしてのアイデンティティを確立したといえる。当時としては先進的な車両は、国鉄鉄道技術研究所との共同開発によるもので、その後の高速車両開発に大きな影響を与えた。後に、3100形NSE車が増備されると、各所を改良されSSE車となるが、箱根特急だけでなく、江ノ島、さらには国鉄御殿場線へ乗り入れる連絡特急にも投入されて、小田急の「顔」として長く活躍した。写真上は登場時に復元されているが、掲げられている愛称は「乙女」。これは、御殿場から箱根へ入る「乙女峠」に由来する。(上:デハ3021 下:デハ3025 ともに海老名検車区ファミリー鉄道展にて 筆者撮影)

 

 小田急ロマンスカーの源流は、第二次世界大戦前の1935年まで遡ることができます。新宿駅小田原駅間を1924年に開業させた小田原急行電鉄は、昭和初期の不況と遅々として進まない沿線開発のために、見込みよりもかなり低い輸送需要のために運賃収入が少なく、加えて建設時の過大ともいえる設備投資がたたって、経営状態はお世辞にも芳しくない状態でした。

 1929年に江ノ島線が開業すると、夏季に海水浴客などを取り込むために、運賃を半額にするサービスを展開させた結果、連日車両をフル稼働させなければ足らないほどの大盛況になり、厳しい経営状態の改善へと踏み出しました。

 他方、本線といえる小田原線でも、週末に箱根への観光客輸送をすることになります。もともと、小田原線建設の目的の一つとして、帝都東京に最も近い観光地であり保養地でもある箱根への観光客輸送が掲げられていたので、当然といえば当然のことでした。そして、1935年に週末のみ運行をする「週末温泉急行」の運行を始めました。クロスシートを備え、トイレも設置した専用車両ともいえる101形電車が充てられ、こちらも一応の成功を見たのでした。

 しかし、1941年に勃発した第二次世界大戦により、戦時政策の一つとして公布された陸上交通事業調整法の趣旨に則って小田急電鉄は、東京横浜電鉄京浜電気鉄道とともに合併し、いわゆる大東急と呼ばれる東京急行電鉄となりました。そして、戦時下となったことで、観光客輸送を目的とした「週末温泉急行」の運行もとりやめになって、その系譜は途絶えたのでした。

 終戦後、戦後処理が思うように進まなかったことなどが原因となって、大東急は経営に行き詰まりを見せていました。加えて、戦災復旧が進むにつれて、都心部に住んでいた人々は郊外へと移り住んだことなどによって、輸送力の増強を迫られていましたが、経営不振が続く中で、それも思うように対応できず重荷になっていきました。その結果、1949年に大東急は事業規模を適正化させることなどを目的に、合併させた小田急電鉄をはじめ、京浜電気鉄道京王電気軌道を分離させ、経営を受託していた相模鉄道小田急傘下で切り離し、今日の東京都南西部の私鉄網につながることになりました。

 大東急から分離した小田急は、さっそく新宿駅小田原駅を結ぶ特急列車の運行を計画します。もっとも、終戦により観光客輸送の需要が高まったためではなく、当時の小田急は路線距離が長い割には運賃収入が少ない実態があったことから、新宿駅から箱根へ直通する列車を走らせることで、観光客の需要を掘り起こして増収につなげたいという意図からでした。

 こうして、週末に限って新宿駅小田原駅間をノンストップで運行する特急列車が復活し、当時としては最も整備された1600形が選ばれました。とはいえ、1600形は16m級3扉の車体をもつ通勤形電車で、特急列車の運用に就くときには車両中央の扉を締め切りにし、そこに補助座席を設置、ロングシートには白い座席カバーを掛けて、車内に灰皿を置く程度でしたが、それでも、終戦間もない物資が不足する世の中にあって、小田急としてはその時にできる限りのサービスを整えたのでした。

《次回へつづく》

 

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