旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

1984年の生田駅を通過する小田急ロマンスカー【2】

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《前回からのつづき》

 

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 戦後の混乱も落ち着いてくると、専用の車両が登場していきました。1910形は2扉で扉付近はロングシートでしたが、ほかはクロスシートを備えたことで、特急列車としてのサービスを向上させました。そして、ロマンスカーを語るうえで欠かすことのできない「走る喫茶室」と呼ばれる、車内に喫茶カウンターを設け、飲み物を販売するサービスを始めました。そして、1950年には傘下の箱根登山鉄道の鉄道線のうち、小田原駅箱根湯本駅間に、小田急と同じ1067mm軌間の車両も走ることができるように三線軌条を設け、ついに新宿駅から箱根湯本駅まで直通させることが実現し、言葉通り観光輸送に特化した列車が運行だれたのでした。

 さらに、1952年に登場した1700形は、片側1扉で全席が転換クロスシート、さらに「走る喫茶室」として本格的なサービスの提供が可能なカウンターと石炭コンロを設置するなど、国鉄で戦災あるいは事故により廃車となった車両の台枠を活用した改造車であるものの、ロマンスカー復活の礎となる車両でした。

 

第二次世界大戦後、大東急から分離独立すると、戦時中休止していた箱根への観光輸送の再開を模索した。しかし戦時中に多くの車両を酷使、あるいは損耗していたため、特急用の装備をもつ車両はなく、専用の車両をつくることもままならなかった。そこで、3扉ロングシートを備えた通勤用の1600形を、中央の扉を締切扱いとしたうえで、座席には白いカバーを被せ、車内に灰皿を設置するという当時としては「精一杯」のサービスをした週末温泉特急として運行し、箱根への観光輸送を復活させた。(Akira Furusawa(古沢明), Public domain, via Wikimedia Commons)

 

 時代は流れ、1957年に登場した3000形SE車は、ロマンスカーとしての地位を確立し、この後に開発製造される車両に大きな影響を与える名車となりました。連接台車を採用し、車両1両あたりの長さは短くなりましたが、当時としては類を見ない優れた走行性能は、国鉄の鉄道技術研究所と共同で走行試験をするほどでした。私鉄の車両が国鉄線上で走行試験を行うこと自体が異例のことでしたが、その開発過程には国鉄も絡んでいたことも、その理由の一つでした。

 3000形SE車は、登場直後は「はこね」や「えのしま」をはじめとした新宿と観光地である箱根、江の島を結ぶ特急列車の運用につき、まさに小田急の看板列車ともいえる存在となり、フラッグシップといっても過言ではない存在にまでなりました。

 後に改良工事を受けることでSSE車となりましたが、この後に開発製造されることになった3100形のNSE車が登場し増備されると、華々しくデビューし、首都の都心と有数の観光地であり保養地でもある箱根の間を、快適で早く移動できる存在になりました。

 そして、ロマンスカーの地位を確固たるものへと押し上げたのが3100形NSE車です。SE車譲りの連接台車を採用し、1両あたりの長さは短いものの、乗り心地、走行性能ともに小田急の看板列車としての名に恥じぬものだったといいます。特に、新宿駅小田原駅の間を60分で結ぶことは、小田急ロマンスカーに課した絶対の課題でした。そのため、曲線通過時の速度と安定性は必須の項目だったようで、SE車を使った車体傾斜装置を用いた走行試験を行うほどでした。しかし、当時の技術では現在のようなきめ細かな制御ができなかったことや、振り子式を使うと乗り心地の面で問題もあったことから、NSE車ではこれらの新技術の本格的な採用は見送られました。

 他方、主電動機は強力な出力110k/Wの東洋電機製TDK-807-Aを1台車あたり2基、搭載しました、NSE車は11両で1本の編成を組み、そのすべてが電動車で組成される全電動車編成で、なおかつ連接台車を装着したため、台車は1編成で12台、主電動機は24基となり、編成出力は2640kWでした。NSE車がつくられた1963年と同じ年に国鉄が製造した103系も、主電動機は同じ出力である110kWのMT55を搭載し、電動車と付随車の比率を6M4Tとした10両編成では、その数は24基になるので編成出力は同じ2640kWとなり、最高速度は100km/hに留まりますが、NSE車は設計最高速度は170km/hにも達する高速運転が可能な車両だったのです。

 これは、連接構造を採用したため、1両あたりの車体長は16m級と短く、自重も軽かったこともありますが、設計時に1トンあたりの主電動機出力を大きくとり、中速から高速域での加速性能を高くしたことで、曲線が多い小田原線内での運行に最適化させたものだったのです。

 小田原線新宿駅を出ると武蔵野台地多摩川に向かって駆け下り、神奈川県内に入ると多摩丘陵の南端部にある谷間を縫うように走り、相模台地を登って再び平野部になり、神奈川県西部に入ると丹沢山地の麓を抜けるため、曲線と勾配が連続するなど厳しい線形をしています。このような曲線と勾配を繰り返す路線を60分で結ぶためには、強力な主電動機による高速性能と、連接構造による曲線通過時の速度維持、そして乗り心地を保つという相反する性能を求めた結果、NSE車は25パーミル勾配でも110km/hという均衡速度を維持できるという、日本の鉄道車両では類を見ない高性能車だったといえます。

 また、ロマンスカー小田急の看板となる列車です。その看板列車に充てる車両には、当然、質の高い接客設備をもつことが要求されます。NSE車は、その一番の特徴として前面展望を利用客が楽しむことができる展望席を、先頭車の客室に設けたのでした。

 

夕暮れの御殿場駅で折り返しのひとときを過ごす3000形SSE車「あさぎり」。小田急の「看板」として走り続けたSSE車も、NSE車やLSE車の増備によって箱根や江ノ島への特急運用から、国鉄御殿場線へ乗り入れる運用に軸足を移した。これは、NSE車以降の特急用車両はすべて展望席を備えた構造であるため、国鉄線へ乗り入れるための規格から外れていたことによる。そのため、SSE車は国鉄形ATSを装備し、編成も5両編成にするなどしていたが、「あさぎり」は国鉄線も含めて全区間小田急の乗務員が運行する「乗務員ごとの乗り入れ」という特異な運行形態で、国鉄分割民営化後もしばらく続けられた。(©Spaceaero2, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 鉄道車両の先頭車の、それも最も前の位置には乗務員室があり、そこには運転士が座って信号確認など運転操作をするために前面監視をするのが常識でした。言い換えれば、列車からの前面展望は、運転士が独占していたとも言えるのです。ところが、小田急はNSE車の設計にあたって、この運転士が独り占めしていた前面展望を乗客に楽しんでもらうことを企画し、より多くの乗客を集めて輸送する企図があったといえるのです。

 この乗客が先頭車の最も前に座り、何にも邪魔されることなく前面展望を眺めることができる展望室を備え、代わりに運転士が乗務する運転席はその上である2階に設置する構造にし、小田急ロマンスカーの基本スタイルが確立されたと言えるでしょう。

 運転士は通常、側面に設置された扉から乗務員室に出入りしますが、NSE車では展望室後方の天井部分に設けられたシャッターを開け、アルミ製のはしごを使って出入りするようにしました。つまり、運転士は1度室内に入ると、終着駅までここから出ることができないという、鉄道車両では例のない構造になったのです。これは、小田急では原則として、箱根特急は始発駅から終着駅まで運転士の交代がない乗務員運用をしていることと、車掌はこの2階に設けられた乗務員室ではなく、連結面側車端部に設けられた乗務員室を使うことを前提としていたため、このような運転室の設置が可能だったのです。

 ロマンスカーのサービスの一つである「走る喫茶室」の喫茶カウンターも、NSE車には設置されました。SE車よりも喫茶カウンターの面積を拡大し、乗務するアテンダントの執務環境は大きく改善され、より充実したサービスの提供が可能になったと考えられます。

 また、客室内の座席は回転クロスシートを採用し、特急用車両としてふさわしいものでした。もっとも、後年登場する7000形LSE車が回転式リクライニングシートを採用したことで、NSE車の座席はリクライニングしない構造だったことは、陳腐化したものと見做されるようになったこと否めないと考えられます。

 もう一つ、NSE車の特徴として、製造当初から冷房装置が設置されていたことでした。1960年代前半に製造された車両としては珍しく、特急用車両として高い水準のサービスを提供するのには欠かせないものでした。NSE車は床下設置のヒートポンプ式である冷房能力9000kcal/hをもつ三菱電機製CHU-40形を1両あたり2基を、展望室部分には冷房能力4500kcal/hの同社製CHU-20形を1基を装備しました。床下設置式は屋根上に重量のある装置を設置しない分だけ、重心を低く取ることができるので、NSE車のような高速列車で運用される車両には最適のものといえます。一方で、冷房装置が作り出した冷風は天井部分やそれに近いところから客室内に送らなければ、客室内を効率的に冷やすことができないことから、窓下に設置したダクトを通して、座席テーブル付近に取り付けられた吹出口から送り出していました。もっとも、後年の更新工事を施工したときには、冷房能力を強化するため屋根上に、冷房能力10500kcal/hのCU-193形を設置し、天井に冷風用ダクトを設け、照明両脇に吹出口を設置するなどといった変更がされました。

 このように、製造当初から有料特急として運用することを前提とした特急用車両だったため、NSE車は1960年代前半に設計製造された車両とは思えないほど、斬新で充実した設備を備え、高速性能にも優れた車両として、新宿駅小田原駅間を60分という短時間で結び、さらには小田原駅より小田急傘下の箱根登山鉄道箱根湯本駅まで乗り入れ、多くの観光客を輸送するという、同社の看板列車となったのでした。

 

《次回へつづく》

 

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