《前回からのつづき》
そして実際に通勤することになると、事前に教えられた通りに寮の近くにある「別院通り」というバス停から西鉄バスに乗ります。このバス停の名称は、寮のすぐ近くにある浄土真宗本願寺派の本願寺鎮西別院から海岸へ向かう「別院通り」から採られたものでした。
このバス停から小倉駅前を通って戸畑へ向かうバスに乗るのですが、異郷の地で路線バスに乗ることもあまり経験がなかったので、やってきたバスに前扉から乗るものだと思い込んでいると、バスはバス停をわずかに通り過ぎて停まり、中扉を開けたのでした。
筆者の実家がある地域では、路線バスの運賃は均一運賃制で、前扉から乗車して運賃を支払い、降りるときは中扉からでした。ところが、それが「当たり前」だと思っていたところに、中扉が開けられそこから車内に入り、しかも乗車口に備え付けられた整理券を取り、降りるときは運賃箱にその整理券と一緒に、運賃表に表示された金額を支払って前扉から外へ出るという流れは、19歳になったばかりの当時の筆者にはカルチャーショックを受けたものです。
そして、バスに揺られて区境を超え、海側に門司操車場や東小倉駅の線路軍を眺めると、小倉市街の入口にあたる砂津で降りることに。この砂津は北九州線の起点であり、ここを走る車両の基地があり、ここから入出庫する電車がひっきりなしに走るので、見ているだけでも飽きないものでした。
もっとも、道路上には電車の停留所、そしてこれもまた数多く運転されるバスの停留所があり、狭い場所に路面電車とバスの停留所、さらには車庫に出入りする電車もあるため、横断歩道を使わないで道路を渡ることはほぼ不可能、電車とバスが接触しないかと気をもむ場面もありました。
北九州線があった頃の砂津車庫。小倉の都心部にこのような路面電車の車庫があること自体、筆者には衝撃的だった。その様子は、どこかのんびりとした空気が漂っていたようにも思えるが、北九州線にとって最も重要な施設であったことには変わりない。(パブリックドメイン)
この砂津電停が当時の北九州線の起点でしたが、1985年まではここから東へも軌道が伸びていました。手向山トンネルを超えて門司区内に入り、鹿児島本線沿いに大里を横切り、門司駅前などを国道3号線を走り、門司港駅近くに設けられた桟橋通電停を経て、福岡県道261号線をさらに北上、現在は中央分離帯のある片側2車線道路の東本町二丁目、旧門司に近い場所が起点の門司電停がりここが起点でした。
しかし、モータリゼーションの波に押されて、他都市の路面電車と同様に自動車の渋滞原因に挙げられた末にダイヤの確保もままならなくなり、残念ながら門司−砂津間は廃止されてしまいました。それでも、小倉の中心部を貫くように砂津以西が残されていたのは奇跡といっても過言ではなかったと言えるでしょう。
この砂津電停で電車を待っていると、主に600形と呼ばれる電車がやってきました。
この600形電車は北九州線の主力ともいえる存在で、電停で待っているとほとんどこの電車に乗ることが多かったと記憶しています。
初めて北九州線の600形を見たときに、これもまた筆者は驚かされました。というのも、路面電車といえば古びた車両が自動車の波に揉まれるように走っているというイメージを抱いていたのです。ですから、ウィンドウシル・ヘッダーがあり、もう何十年も走り続けてきた吊り掛け駆動で、冷房もない、塗装もそれらしくくすんだ色を身にまとった車両という固定概念がありました。
ところがこの600型は、張り上げ屋根で垢抜けた形態で、塗装も白をベースに青と朱色の細い帯を巻き、屋根の上には冷房装置も載せているなど、近代的な形と装備をもっていたのです。しかも、前面は古いデザインを残しながらも、前照灯と尾灯は1つのライトケースに収められ、左右に1組ずつ窓下に配置した鉄道車両に通じるものでした。
初夏の暑い中で仕事を終え、寮への帰路にこの冷房装置を載せた600形がやってくると、とても幸運に思えたものでした。車内に入れば涼しい空気が疲れた身を包んでくれたので、わずか十数分でも十分に癒やしになったのを覚えています。
北九州線は小倉の都心部を貫くように走っていた。写真は小倉駅から徒歩で数分の場所にある魚町付近で、かつては「魚町」電停があった場所である。北九州線は老どの中央部、色のない(赤色でない)アスファルトの部分に併用軌道が敷設されていて、その脇を自動車が通るという構造であった。しかし、軌道敷内が通行可能であっても、ひっきりなしに電車がやってくるため、実質は片側1車線道路のようだった。この道路は、路面電車だけでなく路線バスも数多く通行していたので、混雑が激しく路面電車の定時運行に大きな支障があったという。ちなみに、写真右側に辛子明太子で著名な「ふくや」が見えるが、筆者は帰省の時や、所用で北九州を訪れたときには、必ずといっていいほどこの店で土産を購入した馴染みの場所でもある。(©pimoru, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)
一方で、車体外観は更新工事によって近代的なものでしたが、車内は車齢相応に床は板張りと古いものでした。床の高さも今日のようにバリアフリーなどという言葉がなかった時代なので、高いステップを上って車内に貼らなければならない点では、古い車両そのものでした。
もちろん北九州線は600形だけでなく、他にもいろいろな車両が走っていました。
特に印象深かったのは、連接車体をもった1000形でした。連接車体なので主力の600形のように1両単位で運転される電車と比べて車内は広く、特に朝夕のラッシュ時にこの1000形がやってくるとほぼ座席に座ることができたので、600形よりも楽に通勤ができたのでした。
もっとも、1000形は連接車体で広い車内でしたが、冷房装置をもっていなかったため、気温が高い日などは車内も暑くてうだるようでしたが、それでも当時は夕方にもなれば気温も下がるので、走り出せば心地よい風が入ってきたので、それほど苦でもなかったと記憶しています。
仕事帰り、夕暮れ時の電停は独特の雰囲気をもっていると筆者は感じていました。路面電車が走る軌道線の中でも併用軌道が敷かれる道路は、一般の道路に比べて幅員が広く取ってあるのが一般的です。道路の中央部に併用軌道が敷かれ、そこを路面電車が走り、その両側を道路として自動車が通行するので、電停は道路のもっとも中央の位置に設けられるのがほとんどです。
自動車が通行する道路部分は、ラッシュの時間帯に入ると多くの車が行き交いますが、併用軌道部分は車が入ることはほとんどないので、その部分がポッカリと穴が空いたように感じられるでしょう。
繁華街や鉄道駅に近い電停であれば、そこで乗り降りする人も多くなります。電停には電車を待つ人が列をなし、電車がやってくると乗っていた人々がどっと降りていき、替わるようにして待っていた人が乗り込んでいくという光景が、道路の真ん中で繰り広げられます。
仕事帰りに小倉の繁華街で買い物や食事をしようと件の魚町電停や、小倉駅前電停で降りると、夕暮れ時の薄暗くなる中、そうした中へと降りていき、道路を渡って目的の場所へと向かったものでした。
他方、そうでない閑散とした電停になると、様子は一変するでしょう。誰もいない電停には、寂しく電停であることを示す標識がぽつんと立っているだけでした。電停の標識には照明が内蔵されていることも多いので、薄暗い中に煌々と光を放って存在感を出していました。
誰もいない電停に、これまたがらんと空いている電車がやってきて停車すると、家路を急ぐ人が降りてきて、道路を渡って住宅街の中へと消えて行く光景も見られました。稀に、電停で家族が返ってくるのを待つ親子の姿があると、電車から父親らしい人が降りてくると、子どもがそこへ駆け寄っていく姿を見かけたこともありました。昭和からまだ平成に入ったばかりの時代、こうした風景も今ではあまり見られなくなりました。
都市部の街なかを縫うように走る路面電車は、都市の交通としての顔とともに、どこかローカル情緒を織り交ぜた独特の雰囲気は、大都市圏では見たり感じたりすることができないものになりました。
そうした意味でも、筆者にとって北九州線は思い出深い存在なのです。
さて、少々センチメンタルなお話になってしまいましたが、北九州線の最晩年まで活躍した車両たちにも簡単に触れておくことにしましょう。
《次回へつづく》
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