《前回からのつづき》
■北九州線の主役、冷房装備の600形
筆者が赴任した1991年は、北九州線は翌年に廃止されることが決まっていた時期だと考えられます。すでにこの頃の小倉市街は自動車が多く走り、路面電車である北九州線の存在が、道路交通において少々厄介になっていました。
とはいえ、自動車交通を一方通行にするなど、大胆な施策を警察とともに取り入れるなどしたことで、北九州線は軌道線としては比較的恵まれた環境の中で、定時制を確保しやすかったと言えます。
その北九州線の主役が600形でした。
600型は第二次世界大戦が終わり、終戦の混乱が一段落し始めた1950年から1953年にかけて製造されました。それまで、北九州線には前身である九州電気軌道が製作した木造ボギー車の1形や35形が運用されていましたが、老朽化が進んでいたことなどからこれを置き換えることを目的に新製されました。
全長は12,200mmと軌道線用の車両としては標準的な長さでした。雨樋を屋根部に設置した張り上げ屋根の車体は、66形更新車で好評だったデザインを踏襲しました。車端部には乗降用の折戸を設け、乗客は後部となる扉から乗車し、前部となる扉から降車する方式が採られていました。
客室窓は扉間にずらりと並べられ、上下段上昇式の2枚窓で1か所あたりの面積も広いことから、窓からの採光により車内は比較的あかるいものでした。
前面には中央部に面積を広くとった窓、その両脇には細い窓を設けるといった、軌道線用電車としては標準的な意匠でした。そして、前照灯は中央部窓したに白熱灯1個を設置、尾灯は前面下部に左右1個ずつ配置した、これもまた軌道線用電車としては一般的なものでした。
全部で50両が製作された600型は、北九州線で連接車の1000形に次ぐ勢力を誇りましたが、1000形が連接構造をもっていたため収容力は大きく、ラッシュ時にはその輸送力を遺憾なく発揮したものの、日中の閑散時間帯には過剰な輸送力となってしまい、最後は朝夕のラッシュ時にのみ運用されていたのに対し、600形はちょうどよいサイズの車体をもっていたため、時間帯を問わず多くの運用を受け持っていたことから、実質的に北九州線の主力として活躍しました。
1958年になると、全車が窓のサッシのアルミ化、車内の照明を蛍光灯への交換するといった更新工事を受けています。また、1970年からはワンマン運転に備えた工事も施され、前面の方向幕の大型化や中央窓のHゴム支持への変更、乗降用扉を自動ドアへの交換など多岐にわたる変更が施されました。
さらに1981年になると、将来の冷房化に備えた改造が施されます。重量の重い冷房装置を屋根上に搭載するために、車体の骨組みを強化したり、客室窓を上段上昇下段上昇から上段をHゴムで固定する「バス窓」化や、後期に改造された車両は前面に設置されている灯火類も交換し、前照灯は中央窓下に設置された白熱灯1個から、尾灯とセットにされたシールドビーム灯2個を左右に取り付け、その間には西鉄の社章が設置されました。
筑前家山駅前に保存されている、西鉄600形電車。路面電車らしい、前照灯が中央窓下に1個だけ設置された、未更新の姿でもある。その一方で、冷房化改造が施されているため、塗装は最末期のクリーム地に赤と青の帯を巻いたもの。初夏の暑い夕方に、金田電停でこの色の電車が来ると、心地よく帰ることができるので嬉しかったものだった。車体裾には西鉄のCIロゴも書き込まれ、廃止直前の姿だったと思われる。(パブリックドメイン)
1986年から計画されていたとおりに冷房化工事が始められましたが、全車に施されませんでした。冷房化改造を受けたのは近畿車輛で製造された車両のみで、その他は非冷房のままで運用が続けられました。これは、600形が新潟鉄工所(現在の新潟トランシス)と川崎車輌(後に川崎重工車両カンパニー、さらに分社化によって川崎車両(二代目))、そして近畿車輛の三社に分けて製造されましたが、同じ600形でも新潟製と川崎製はK-10系台車を、近畿製はFS-51形台車と異なるものを装着したいたことによるもので、台車の強度の関係から近畿製の車両だけに冷房装置が搭載されたのでした。
こうして600形は北九州線で活躍しましたが、1992年に砂津―黒崎駅前間の第二次廃止とともに多くが廃車になり、2000年の全廃時にはわずか7両だけが在籍しただけでした。
■66形
66形は北九州線の前身で、西鉄の源流である九州電気軌道が1929年に川崎車輌で製作した2軸ボギー車でした。
九州電気軌道にとって初めての鋼製車体を採用したもので、車体全体が鋼製でありリベット接合を多用したことや、屋根も従来の二重屋根ではなく丸屋根など近代的なスタイルでした。
主電動機の出力も45kWと増強され、同時に車輪径が660mmという小径車輪を採用したことで、床面高さを低くした低床車両でした。こうした設計と仕様は、後に北九州線向けに新製する電車の基本となったのです。
鋼製車体をもち、丸屋根といった近代的な設計の66形は、木造車に比べて当然ですが重量がかさんでしまいました。そのため、66形の増備車となった100形は、この反省から半鋼製とされましたが、66形自体も1950年に車内の内装を木製に変更する改造が施されました。加えて、状態がよくない66形については、車内の内装を交換するだけでは今後の使用に耐えられないとされ、車体を半鋼製のものに新造して交換されました。
新製された半鋼製の車体は、従来のものとは大きく異なり、雨樋を屋根上に設置した「張り上げ屋根」となり、客室の窓も従来よりも面積がお大きくなったことで車内も明るく、その整ったデザインは利用客から好評だったといわれています。そうしたこともあって、1951年から新製がはじめられた600形にもそのデザインは受け継がれました。
66形は一貫して北九州線を走り続けた車両と、同じ西鉄の軌道線である福岡市内線に転じた車両がありました。1953年に連接車である1000形が大量に入ってきたため、66形は余剰気味となり、同じ頃、木製ボギー車が残存していた福岡市内線では、これを置き換える車両が必要だったこともあって、79号を除いて転属していくことになりました。
福岡市内線を走る66形74号車。既に周りには多くの自動車が囲むように走り、モータリゼーションが急速に進行していることが分かる。電車は短い距離に4本も団子のように連なっているので、恐らくは激しい車の混雑に運行もままならない状態になっていたと想像できる。塗装は2色の旧塗装で、この後、1971年に吉塚線が廃止されたのを皮切りに続々と廃止され、1979年に最後まで残った福博循環線と宮地岳線の一部が廃止されたことで、福岡市からすべての路面電車が姿を消していった。(©浮穴三郎, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
北九州線に残った内装改造車の10両は、乗降用扉の2枚折戸への改造や内装の近代化改装などの工事が施されながら、誕生から走りなれた玄界灘に沿った北九州の街を走り続けましたが、1972年に全車が廃車、残ったのは車体更新を受けながら残った79号だけになりました。
1979年になると、福岡市内線が路線縮小することになり、今度はここでも余剰となっていきました。結局、北九州線に残った79号と、福岡市内線を走り続けた75号は1976年に廃車となってしまい、福岡市内線に残っていた66形は、再び北九州線へと戻っていくことになります。そして、1980年になると600形と同様の更新工事をうけましたが、1985年の第一次廃止で3両が廃車、さらに残った7両も1992年の第二次廃止をもって全車が廃車となり形式消滅していきました。
1929年に誕生した66形は、途中改造や更新を受けながら66年もの長い間、北九州市の人々にとって親しまれ、通勤通学はもとより日常の足として走り続けたのでした。
《次回へつづく》
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