旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

東海道新幹線60周年に寄せて【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 2024年10月1日、今年で東海道新幹線が開業してから60年、人間でいえば「還暦」に値します。

 国鉄から東海道新幹線を引き継いだJR東海も、この大きな節目を迎えるにあたって、これを記念した行事を実施したり、グッズの販売や旅行促進のキャンペーンを展開したりしています。中でも筆者の目をひいたのは、60年の足跡をたどるかのように構成されたTVCMです。

 「60年分の会いに行こう」と題されたこの映像、冒頭は栄光の初代新幹線電車である0系が、薄っすらと差し込む光の中に浮かび上がり、その向こう、車両越しに女優の吉高由里子さんが登場します。そして、吉高さんが0系に歩み寄ると、かつて車内放送で流れた「鉄道唱歌」のオルゴールが流れ、その後歴代のオルゴールが流されます。0系に歩み寄った吉高さんは、かつて、東京―博多間の1200kmを210km/hという速さで走り抜け、多くの人々を運ぶ活躍をし、今では静かにその栄光を語り続けている0系の前頭部にそっと手を添えます。筆者は、吉高さんが0系に心の中でなにかを語りかけているようにも感じました。

 このあと、画面がひいていくと、そこには0系を一番手前にし、100系300系、700系と、東海道新幹線で活躍した歴代の車両たちが登場し、かつては多くの人が乗っていた誰もいない車内に光が差し込み、過去へと戻っていく構成になっています。

 テレビでは尺が限られているので30秒の映像が流されますが、フルバージョンは120秒、すなわち2分にも及ぶ長いもので、JR東海がかなり力を入れて制作したことがうかがわれるでしょう。

 


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 1964年10月1日に開業した東海道新幹線は、東京駅と新大阪駅の間を速達型である「ひかり」で4時間、各駅停車である「こだま」で5時間で結びました。最高運転速度200km/hは、当時、世界の鉄道でも驚異的なスピードで運転されたことで、多くの注目を集めました。

 この高速鉄道の実現までは、数多くの課題や難題が山積していましたが、「夢の超特急」の実現のために、国鉄はあらゆるリソースを惜しみなく投入し、安全かつ高速で運行するために欠かせない技術を開発し、それが確実であるものになるよう実験を繰り返しました。そうした国鉄の技術陣をはじめとした、多くの人の努力の結晶として、日本の大動脈ともいえる東海道新幹線が開業したのです。

 さて、開業当時に東海道新幹線のために用意されたのは、後に0系と呼ばれる電車でした。飛行機にも通じるその先頭形状は、戦争中に航空機の開発に携わった旧海軍の技術士官だった三木忠直氏の設計によるもので、アメリカ製のジェット旅客機・ダグラスDC-8の機首形状を鉄道車両に適した形状に修正したものでした。

 航空機の形状を原型としたため、0系は「団子鼻」とも呼ばれる円形の前頭部、そして丸みを帯びたスタイルは、長らく1964年から1986年の22年間という、同一の鉄道車両としては異例の長期間にわたって製造されました。

 そのため、新幹線といえば0系と、後継の100系が登場するまでまさしく「顔」として、多くの人々に親しまれ、かくいう筆者も子ども時代は、新幹線=0系という概念を抱き、いつしかこれに乗ってみたいと思ったものでした。

 

1964年19月の開業時から、長らく東海道新幹線の主役として走り続けた0系は、今日のように「○○系」という呼び名が一般的ではなく、単に「新幹線」と呼ばれてきた。そのため、新幹線と言えばこの車両というほどシンボル的な存在であったともいえる。国鉄形車両としては異例ともいえる22年間、38次にわたって3,216両が製造され続けた。(21-86 リニア鉄道館 2019年7月25日 筆者撮影)

 

《次回へつづく》