《前回からのつづき》
筆者が初めて新幹線という乗り物に乗ったのは、まだ小学生の頃でした。
当時は剣道を習っていたのですが、ある日、いつも通りに夜間の稽古に行こうとすると、母から「今日は1部だけで帰ってきなさい」と言われました。夜間の稽古は夕方18時から19時までの1部と、19時から20時までの2部に分けて行われていましたが、普段は両方に参加していたので、一体何があるのだろうかと不思議に思ったのです。
言いつけどおりに1部の稽古だけで切り上げて自宅に帰ると、夕食を食べ終えるや「これから出かけるぞ」と祖父に言われました。ますます何が起きるのかわからず、言われるがままにバスに乗せられ川崎駅に着くと、そこから大垣行き普通列車、いわゆる「大垣夜行」に乗って一路名古屋へと行きました。
そして、翌日の早朝に名古屋駅に着くと、そこで初めて新幹線に乗ったのです。
1980年代のことだったので、当時の東海道新幹線は0系だけが走っていましたが、とにかく200km/hという速さで走る鉄道に乗れるとわかると、もはや興奮して仕方がなかったことを思い出します。
広島駅に進入してくる0系電車。筆者にとって初の長距離旅行であったとともに、初めての新幹線でもあった。幼少の頃から自宅近くを走る東海道新幹線が走り去る光景を眺めてきた身にとって、「夢の超特急」が現実の列車として乗る機会でもあった。この写真を撮影してから40年後の2024年、仕事とはいえ新幹線を利用して広島を訪れることになったのは、何かの因果なのかもしれない。(新幹線0系電車 広島駅 1984年3月30日 筆者撮影)
0系は今日走っている新幹線車両とは異なり、気密性に課題が残っていたので、トンネルに入ると「ミシミシ」という音をさせました。高速でトンネルに入ると気圧の変化が大きいため、車体がきしむ音がしただけでなく、耳が「ツン」としてしまいました。ちょうど、自動車などで高い山を登るときに起こる、あの耳にくる違和感です。
しかも悪いことに、山陽新幹線区間ではトンネルが多いため、この耳が「ツン」とくる感覚は度々起こってしまうので、やたらと唾液を飲み込んでは違和感を解消したものでした。
そんな、快適とはいい難い0系でしたが、当時はこれ一択だったので、「ああ、新幹線てこんなものなのか」と考えたものでした。とはいえ、地上の交通機関では最速であることには変わりなく、ほかに代替えするものもなかったので、慣れてくるとそれほど嫌だと感じなくなったものでした。
車内の音も、現在の車両のような高い静粛性はありませんでした。輪軸がレールの継ぎ目や、ロングレールの溶接部を通過するたびに「ココンココン」という音を響かせ、車内にも入り込んでいました。揺れもそれなりにあり、まして初めての長旅で何度も気圧で鼓膜をやられていたので、最後は食べた弁当をリバースする始末。人生初の新幹線は散々な目にあわされたものです。
ちなみに、当時運用されていたのは、初期に製造された客室窓の長いタイプのものと、改良型とした客室窓の小さい1000番台が主役でした。特に窓の小さい1000番台は、窓枠に小物を置くことができるので、買ってもらった飲み物を置いて車窓を楽しんだものです。
博多方先頭車である新幹線0系21形と、その次位には26形が写っている。26形の乗降用扉のあるデッキ部のすぐ後位に小さな窓が見える。この位置が「業務用室」とされ、ちょっとした個室になっている。室内には在来線の近郊形電車などでも使われているもに似たクロスシートが備えられ、急病人が発生した時などの休憩室としても使うことができるようになっていた。筆者の人生の中で、この部屋を使うことなど考えたこともなく、実際にこうした経験は後にも先にもこれ一度きりだった。(©永尾信幸, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
二度目に東海道新幹線に乗ったのは、それから1年か2年してからでした。やはり祖父に釣れられて九州旅行へ行くときに利用しました。このときは、すぐ下の妹も一緒に出かけたのですが、思いもよらないアクシデントに見舞われました。
東京駅7時00分発車のひかり3号の1号車に乗るのが祖父の定番だったらしく、少し早めに自宅を出て東京駅に行くと、すぐに新幹線ホームへと上がっていきました。当時、最速タイプの「ひかり」は、博多方先頭車から自由席が設定されていましたが、1号車はさらに禁煙車としても設定されていたので、タバコの煙や匂いに悩まされることはありませんでした。
7時00分に東京駅発、博多駅行き「ひかり3号」が発車すると、浜松町駅近くにある東京タワーを眺めながら、1200km彼方にある博多駅までまっしぐら、というはずでした。ところが、妹がお腹が痛いといい出し、はじめはただの腹痛だろうと思っていました。ところが時間が経つにつれて症状は悪化する一方、顔は青ざめ腹を抱え込んで痛みに耐えている様子でした。
普段は軍隊仕込みの厳しい祖父でしたが、このときばかりはどうしようもないといった感じで、最後は巡回に来た車掌に妹のことを相談しました。
すると、対応してくれた車掌は、筆者たちを2号車デッキ部にある業務用室に案内してくれたのです。
業務用室は普段はあまり使うことがない部屋でしたが、急病人が出たときなどに休憩室として使うことを想定していて、中には在来線を走る113系などでも見られるボックスシートが備え付けられていました。
ここで、博多駅までやり過ごそうとしたのでしょうが、症状は改善する見込みはなかったのです。子ども心に博多で病院に連れていけばいいのにと思ったものでしたが、なんと、そこから折り返して再び新幹線で戻るというなんとも無謀というか、今の世の中なら「児童虐待」と言われても仕方のない決断をしたのです。
ちなみに、対応してくれた車掌は、車内放送で「急病人がおります。ご乗車のお客様の中で、医師か看護婦(当時の呼称。現在では看護師)の方がいらっしゃいましたら、お近くの車掌までお申し出ください」と車内アナウンスをしてくれました。
このような走行する列車内での急病人というシチュエーション、本では読んだことがあり知ってはいましたが、まさか、身内でそのようなことが起きるとは思いもしませんでした。
新幹線0系26形中間電動車の形式図。博多方前位の乗降用扉デッキ部のすぐ後位には、山側に車掌が執務をする乗務員室があり、通路を挟んで海側には「業務用室」と呼ばれる部屋があることがわかる。室内には博多方向を向いたクロスシートと、窓側と博多方の壁面にL字形に配置された短いロングシートがあるのが分かる。この部屋は通常は使われることはなかったという。(国鉄新幹線形式図より一部抜粋 1981年日本国有鉄道)
《次回へつづく》
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