旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

「キマロキ」編成の仕事を1両でこなそうとした「モンスター」ロータリー機・DD53形【6】

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《前回からのつづき》

 

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 1965年に製造されたDD51形1号機と2号機の2両は、当初の計画通りに本州日本海沿岸の豪雪地帯である新潟地区に配置されました。1号機は1月に、2号機は12月に落成していますが、詳しい資料がないのであくまでも推測ですが、1号機は落成当初は新潟機関区に配置されたものの、2か月後の3月には東新潟機関区が開設され、新潟地区のディーゼル機は東新潟区へ配置転換、12月に落成した2号機は東新潟区に新製配置されました。

 関係する職員の大きな期待とともに、排雪列車としての運用に充てられ、強力なパワーをもって降り積もる雪を線路から取り除き、列車の運行を支え、可能な限りダイヤが乱れないようにする役割を担ったのです。

 しかし、DD53形はDD14形になかった問題を起こすことになったのです。

 DD53形は出力1100を発揮するPSDML61Z−R形エンジンを2基搭載し、これをロータリー装置の駆動用に使っていました。有り余るパワーで、本州日本海側特有の湿り気を帯びたこびりつく雪をかき寄せ、これを遠方に投射するものでしたが、そのパワーが想定以上に強すぎ、線路沿いにある電線を切断してしまったり、建築物を破壊してしまうことが多発したのです。

 DD53形が投射する雪で破壊されたものが、国鉄が設置し、保有するものであればそれほど大きな問題にはならなかったでしょう。もちろん、これらの設備が破壊されることで、列車の運行を阻害することは避けられないことにつながったかもしれませんが、身内のものであればその補修や復旧は、国鉄自身ですれば済む話です。しかし、投射した雪で破壊されたものが、国鉄のものではなく、一般の電線や民家などになると話は違います。いくら鉄道の運行に必要なことととはいえ、電線が切られて停電になってしまったり、最悪の場合住民のいる家屋が破壊されたとなっては、生活に支障をきたし、大切な私財が被害を被ってしまうのは問題でした。

 もっとも、豪雪地帯の鉄道路線の近くには、民家などはあまり多く建っていなかったので、それほどの大きな問題にはならなかったようです。まら、道路の整備がそれほど進んでいなかった時代では、人々の移動や貨物の輸送は鉄道が第一選択でした。そのため、鉄道輸送を守るためには、多少のことには我慢するといった当時の人々の気質があったといえるでしょう。

 国鉄も、ロータリー式除雪車を運行すると、周囲に大小様々な影響を与えていることを承知していました。排雪列車を運行するときには、雪かき車と機関車の他に、家屋などを修理する建築区の職員や臨時雇用の大工、電線などを修繕するための電力区などの電気技術者も随行し、いざというときにはすぐに修理するなどの対応をしていたことも、問題を可能な限り抑えていたといえます。

 しかし、DD53形が投射する雪の量とその衝撃力は凄まじいものがありました。

 投射した雪が当たってしまった民家の窓ガラスを割ってしまうことは当たり前、屋根の瓦を割るだけでなく、屋根そのものを破壊してしまうこともあったようです。加えて鉄道が唯一の交通手段であった時代には、こうしたトラブルもある程度は仕方がないものと考えられ許容されていたのが、モータリゼーションの進展とともに道路の整備が進むと、もはや鉄道だから仕方がないという考えから変わっていき、これらの問題は大きくなってしまいました。

 

DD53 2のロータリーヘッドは、実際の運用で露呈したあまりにも強力な投射能力から、運転台から投射方向を確認しながら操作できるように、運転台をロータリー装置の後方に移設した。そのため、特徴的だったロータリー装置上に突き出た運転台はなくなり、機械部分が露出する格好になった。(©Alt_winmaerik, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 

 こうしたトラブルが頻発したこともあって、DD53形は3号機が1967年に3号機が製造されただけで増備が打ち切られ、さらにロータリーヘッドに設置された運転台は、リータリー装置の前にあったものをその後ろに移設する改造を2号機と3号機に施され、投射する方向を確認しながら除雪をするようにしました。

 その一方で1号機は東新潟区から北海道の旭川機関区へ配置転換されました。同じく豪雪地帯である北海道の旭川地区で、上越線などと同様の強力な除雪能力を発揮することが期待されました。

 しかし、北海道の雪は本州日本海側沿岸の雪とはまるで異なり、厳寒の中で降る雪は氷の粒に近いものであり、まとわりつくことの少ないサラサラとした雪質でした。厳しい寒さの中では湿度が低いことや、本州のように気温が上がることが少ないため雪が溶けて湿り気を帯びるようなことが少ないこと、そしてこうした条件の中で降る雪は粒が小さいといっった、同じ雪でもまったく違うものだったのです。

 こうした北海道特有の雪質もあって、本州日本海側沿岸の雪質に対応し、高速で走行しながら強力な羽根車をもって、かき寄せた雪を遠方へ投射して除雪をする能力が、極寒の地である北海道ではまるで役に立たなかったのでした。

 DD14形の除雪能力で十分と見做されたため、旭川区へ転じた1号機は活躍をする機会もほとんどないまま、自慢のロータリーヘッドを取り外して、宗谷本線の難所である塩狩峠を越える列車の後補機としての運用に充てられ、新潟地区では能力不足と言われたDD14形が本来の能力を発揮するのを横目に、いわば「冷や飯を食う」日々を過ごしました。

 他方、2号機と3号機は東新潟区に配置のまま、上越線を中心に冬季の排雪列車としての運用に充てられていました。上越線は首都圏と北陸地方を結ぶ要衝であるため、冬の鉄道輸送には欠かすことのできない存在として、その能力を十二分に発揮することができたのです。

 

《次回へつづく》

 

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