旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

「キマロキ」編成の仕事を1両でこなそうとした「モンスター」ロータリー機・DD53形【7】

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《前回からのつづき》

 

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 1976年になると、北海道で本来の役割を担うことのないまま、細々と補機運用に使われていた1号機にも、ようやく本来の能力を発揮する機会が巡ってきたかに見えました。秋田の新庄機関区に配置転換となり、奥羽本線の排雪列車として活用しようということになったのです。

 1号機の転属に際しては、奥羽本線に乗務する秋田機関区や横手機関区の機関士たちへの乗務員訓練もおこなわれ、ようやく本領発揮かに見えました。しかし、すでに奥羽本線の沿線も宅地化が進んでいたため、DD53形が排雪列車として運用に入ると、その強力な能力による雪の投射によって、電線の切断や建築物の破壊という問題を起こしてしまいました。結局、開発が進んでいなかった区間に運用を限定されてあまり使われず、ロータリーヘッドの改造も受けることもありませんでした。そして、たったの3両という少数形式であることも災いし、2号機屋3号機が故障したときには1号機が部品を提供するという、いわゆる「共食い整備」の餌食にもなり、ついには稼働することも困難になったと考えられるのです。

 しかし、稼働が困難であったにも関わらず、1号機は廃車されることもなく車籍を維持し続けました。国鉄分割民営化を翌年に控えた1986年になって、ようやく廃車の手続きがなされました。ここまで廃車手続きがされなかった理由は、やはり新製からの年数がそれほど経っていなかったためといえるでしょう。通常、鉄道車両減価償却期間は、内燃動車で18年に設定されています。新庄区へ配転したのが1976年だったので、この時点で11年が経過していたことから、廃車にしてしまうと問題になることが明白でした。国鉄の財政は年を追うごとに赤字が膨れ上がり火の車状態で、監査をする国の目も厳しくなっていました。新製からさほど年数が経っていないにもかかわらず、廃車にしてしまえば、たちまち「無駄遣いである」などと追及を受けることになります。

 実際、悲運のディーゼル機となったDD54形は、1966年から製造されたにも関わらず、1976年には早くも廃車が始まりました。度重なる不調とそれによる故障、これを原因とした事故を起こし、精密機械の塊のような西ドイツ製のエンジンと液体変速機を搭載したDD54形は、国鉄の検修陣の手に余るほど厄介なものでした。そして、こうした事情から早くも運用側から嫌われ、実際に運転をする機関士や、検修に携わる職員からも忌避される存在となり、稼働率も芳しくないことから早期の廃車という運命をたどりました。ところが、国鉄を監査する立場にあった会計検査院から厳しい指摘を受けたのは想像に難くなく、このことが国会でも取り上げられ問題になるほどでした。

 こうした国や国会からの指摘を避けるため、稼働しないにも関わらずあえて休車という手続きをして車籍を維持し、法定耐用年数をクリアした時点で廃車にしようという目論見であったことは容易に考えられることといえるでしょう。1986年に廃車にすれば、新製から20年以上が経っているので耐用年数は経過し、さらに分割民営化によって余剰車と位置づければ新会社に引き継ぐことなく、廃車手続きも容易に進められたのです。

 こうして、新製から21年目にして廃車となった1号機でしたが、通常であれば廃車となった車両は比較的短い期間で解体処分の命令がだされていました。ところが、1号機の解体処分の命令は保留になったまま、1987年の分割民営化を迎えることになります。新庄区から高崎運転所へと移されましたが、このことが後年の幸運につながったのです。

 

豪雪地帯での活躍を期待されたDD53形だったが、「モンスター」級のハイパワーが仇になり、除雪時に投射した雪で沿線の建築物を「破壊」してしまう事故が問題になり、結局3両が作られただけで終わってしまった。また、豪雪地帯においても年々積雪量が減少していったことも、ロータリー式除雪用機の活躍の場を狭めていき、ラッセル式のDE15形でも十分に対応が可能となっていた。その結果、DE15形は1981年まで製造が続けられ、北海道から本州日本海側の各地に配置されて、21世紀前半まで運用が続けられた。(©スイッチバック at Japanese Wikipedia, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 2号機と3号機は変わらず、上越線を中心とした上信越地域、特に新潟地区の除雪用として重宝されていました。ところが、いつまでも安泰とはいかなかったのです。1982年に上越新幹線が開業すると、上越線の重要度は相対的に低下してしまいました。多くの旅客輸送は新幹線に移転し、数多く設定されていた優等列車も多くが廃止されていきます。特に上野駅新潟駅間を結んだ特急「とき」と上野駅金沢駅間を上越線経由で結んだ「はくたか」は上越新幹線にシフトして廃止、急行「佐渡」は3往復にまで減便されてしまいました。こうした優等列車の大幅な削減や廃止によって、上越線は列車の運行本数、それも長距離の都市間輸送を担った優等列車が激減したことで、DD53形が活躍する機会も大幅に減ってしまったのでした。

 それでも、特に上越国境の雪は多く降り積もる地域であるので、降雪時にはかつてのような頻繁でないものの、時としてハイパワーを誇るDD53形の出番はあったといいます。しかし、近年の地球温暖化が進んでいる環境の要因によって、積雪量もかつてのようなものでなくなり、大量の雪をかき寄せて遠方へ投射する強力なロータリーヘッドによる除雪の必要性も年々減っていきました。

 1987年の国鉄分割民営化で、2号機と3号機はJR東日本に継承されます。「三八豪雪」のような大雪が減ったとはいえ、やはり日本海沿岸特有の湿気を帯びた雪に対応できる除雪用ディーゼル機は欠かすことができない存在だったのです。

 分割民営化に際して、2両のDD53形は新製以来、長らく寝蔵としてきた東新潟機関区から、長岡運転所(後に長岡車両センター。現在は廃止)へ配置転換されました。これは、東新潟機関区がJR貨物に継承されるためで、旅客会社に継承される機関車のほとんどが配置転換されました。

 その後も積雪が減少傾向にあったことや、上越線の重要度が低下したことで列車の運行本数も減り、間合い時間が増えたためDD14形でも対処ができるようになり、DD53形を必要とする場面も減っていきました。そして、2001年に3号機が廃車となって、DD53形は2号機を残すのみとなったのです。

 たった1両になってしまった2号機は、引き続き上越線を中心に排雪列車の運用に充てられ、大雪時における「切り札」として冬季の鉄道輸送を守り続けました。冬季の運用が多く、夏季はあまり走行しないという除雪用機の特性として、走行距離が伸びず比較的良い状態を保つ傾向があったとしても、1965年の新製以来、すでに40年が経過すると老朽化も進んでいました。また、少数形式の性として、補修用部品が手に入りにくくなり、保守にかかるコストも増える一方で、代替となる車両の導入によって、退役は時間の問題になりつつありました。

 

《次回へつづく》

 

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