いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
世の中には「異色の経歴」の持ち主に出会うことがあります。かくいう筆者も職場では「異色の経歴」の持ち主に見られることが多々あります。鉄道にもそうした「異色の経歴」を持つ例が散見されますが、中でも小田急が運行していた特急「あさぎり」は、突出している例だといえるでしょう。
小田急のロマンスカーといえば、多くの人は東京の都心である新宿駅と、首都圏有数の保養地であり観光地でもある箱根を結ぶ特急列車で、先頭車は運転士が乗務する運転席を2階に上げて、前面展望を楽しむことができる展望室を備えた特徴的な車両を思い起こします。
「はこね」や「さがみ」といった箱根にちなんだ愛称を付けた列車が、新宿駅―小田原駅・箱根湯本駅間を高頻度で運転されています。また、2024年現在では、代々木上原駅から東京メトロ千代田線へ乗り入れる「メトロはこね」や、新宿駅と小田原駅間をノンストップで結ぶ「スーパーはこね」も運行されるなど、多彩な列車群を構成しています。
さらに、小田急沿線にあるもう一つの観光地である江ノ島への観光輸送を目的とした「えのしま」も忘れてはならないでしょう。今でこそ平日は下り1本、上り3本と、箱根特急に比べれば極端に削減されてしまいましたが、湘南急行が設定された2004年以前は、平日日中もそれなりの本数が運行されていました。現在でも、土休日は下り6本、上り8本、地下鉄直通の「メトロえのしま」は下り2本、上り1本も加わり、湘南への観光輸送も健在だといえます。
このように、都心と箱根、そして江ノ島を結び、観光輸送や朝夕の通勤輸送にも重宝されるロマンスカーですが、もう一つ、富士山の麓へと走るロマンスカーがあります。それが、現在では「ふじさん」という愛称がつけられた列車で、ロマンスカーの中では「異色の経歴」と「特異な性質」を兼ね備えたものなのです。
現在は「ふじさん」という愛称で運行されていますが、2018年のダイヤ改正までは「あさぎり」という列車名で運行されていました。「あさぎり」は、富士山の麓に広がる朝霧高原にちなんで付けられていました。
新宿駅と御殿場駅を結んでいた特急「あさぎり」は、小田急が運行する特急列車のロマンスカーの中でも際立って異質なものだといえます。小田急ロマンスカーは、基本的には自社線だけを走る列車です。「はこね」ならば小田急小田原線を小田原まで走り、そこから系列である小田急箱根鉄道線、すなわちかつての箱根登山鉄道線の箱根湯本まで乗り入れています。また、「えのしま」は相模大野駅から江ノ島線へと入り、藤沢駅でスイッチバックをしたあと、片瀬江ノ島駅までを結んでいます。
しかし「あさぎり」は、小田原線を新松田駅まで走りますが、ここで連絡線に入ったあと、JR東海の御殿場線松田駅に停車します。そこから、単線の御殿場線を西に走り、御殿場駅まで行く、いわゆる直通運転をする列車です。
1987年の国鉄分割民営化によって設立されたJR東海がそれまでの方針を変え、相互乗り入れの形になるとともに新型車両への置き換えの合意に至るまで、長年に渡って「あさぎり」の運用に就いていた3000形SSE車は、新宿ー富士山南麓の輸送を支え続けてきた「顔」ともいえる存在だった。(海老名検車区 2019年5月26日 筆者撮影)
「あさぎり」が他の列車と大きく異なるのは、特急列車が他社の路線へ乗り入れていることでしょう。「あさぎり」のほかに、他社線へ乗り入れる優等列車は、北近畿タンゴ鉄道が保有し、WILLER TRAINSが運用する「はしだて」のほかにはなく、過去には「タンゴエクスプローラー」や「タンゴディスカバリー」がありましたが、現在ではこれらは廃止されてしまっています。そして、これらJR西日本へ乗り入れている列車は、国鉄分割民営化後に登場したのに対し、「あさぎり」は国鉄時代、それも1955年から運行されているという、長い歴史をもつ列車なのです。
そもそも都心と御殿場を結ぶ列車の構想は、第二次世界大戦の真っ只中にまで遡ることができます。戦時中、相模湾沿いを走る国鉄東海道本線が爆撃を受け、列車の運行が不能になった際に、その迂回路として特に軍部から注目されました。戦時中、鉄道は多くの軍需物資や将兵を輸送する役割を与えられ、戦争遂行のために重要な位置を占めていました。特に東海道本線は太平洋沿いにあるため、沿線の工場や軍の基地への物や人の往来を支える存在であり、爆撃などによって遮断されてしまっては、それこそ大きな痛手を被ります。
そうしたこともあって、政府や軍部は鉄道路線網を多重化して冗長性をもたせることを考えました。例えば、静岡県の掛川駅から内陸部を通り、浜名湖の北側を抜けて新所原駅に至る二俣線(現在の天竜浜名湖鉄道)は、東海道本線の迂回ルートの性格をもっていました。また、東海道本線と中央本線の間を結んでいた南武鉄道(現在の南武線)や横浜鉄道(現在の横浜線)、相模鉄道(現在の相模線。相鉄本線は神中鉄道が建設・開業させたが、後に相模鉄道と合併して神中線となったが、戦時買収で本来の相模線は国鉄線になった。)は、陸運統制令によって強制的に買収されて国有化されました。これらの鉄道路線は、中央本線を東海道本線のバイパスルートとするために2つの路線を連絡させることを目的としていたといえます。
このように、日本の大動脈ともいえる東海道本線が、万一、連合国軍によって攻撃を受け、列車の運行が不能になったときに備えて迂回ルートを確保し、鉄道輸送を止めないという構想を実現させていたのでした。
こうした中で、小田急小田原線から松田駅を経て、御殿場線へ直通させる構想も練られていました。やはり、東海道本線の迂回ルートとしての性格が強かったのですが、実現することもなく戦争が終わり、この構想は日の目を見ることはなかったのでした。
戦後、戦時統制のもとで東京横浜電鉄を中心に、京浜電気鉄道、小田急電鉄、京王電気軌道、そして経営委託という形で相模鉄道を統合した東京急行電鉄、いわゆる「大東急」は、戦後間もない1946年には復興計画の中で小田急小田原線から国鉄御殿場線へ乗り入れ、御殿場駅や沼津駅を結ぶ計画を策定していました。しかし、これを実現させるためには当時非電化のままだった御殿場線を電化させる必要があり、あまりにも多くの資金が必要だったことや、まだ戦後の混乱が収まっていない中で、激増する旅客輸送に対応しなけれけばならなかったこともあって、優先度が低いこともあって実現するまでには時間が必要でした。しかし、1948年になると、その構想を計画した大東急が解体されてしまい、もはや御殿場線への直通運転は実現する見込みがなくなってしまったのです。
《次回へつづく》
あわせてお読みいただきたい