旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

Column:「銀釜」とともに去っていった「角目」のEF81【後編】

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《前回からのつづき》

 

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 旅客車の冷房化が進められる一方で、乗務員の執務環境は変わることがありませんでした。車両に冷房装置が設置されても、客室を冷やしても優等列車グリーン車の車掌室を除いて、乗務員室まで届けられることはなかったのです。まして、機関車にそうした装備は望むべくもなく、機関士や運転士の執務環境は過酷なままでした。
 特に夏になると過酷さはさらに大きくなり、電気機関車であれば機器室に設置されている電装品からの排熱が、ディーゼル機関車であれば巨大なエンジンが発する熱が運転室へと流れ込んでくるため、室温は上がる一方になってしまうのです。
 実際、初夏にDE10形に添乗したときに、側窓を全開にしていてもエンジンの熱と、外気温の高さからまるで蒸し風呂に入ったような経験をしました。走っているときにはそれなりに風が入ってくるのでなんとか凌ぐことはできましたが、停車しているときには熱気が入り込んでくるので、たちまち体中から汗が吹き出してきました。これが夏ならばもっと厳しい中での乗務になることは容易に想像でき、入換作業に就くディーゼル機関車の中には側窓だけでなく、出入用の扉を「全開」にしたまま駅構内を行き来する姿を見かけることがありましたが、これも暑さを少しでも和らげようと機関士のささやかな努力ともいえるでしょう。
 国鉄時代から機関士にとって乗務環境の改善は大きな課題であり、その解決を望んだ労使交渉が行われていたと想像できます。しかし、機関車に冷房装置を設置するとなれば膨大な費用が必要になることは容易に想像でき、火の車ともいえる財政状況の中で、国鉄はその解決に手を付けることはしませんでした。

 

EF81形451号機を外側から運転室内部を撮影したもの。少しわかりにくいが、車内の塗装は従来の緑系ではなく、壁面はクリーム色に変えられるなど暖色系が採用された。車体の塗装もJR貨物が制定した新標準色となったため、直流機と交直流機の区別がつくにくくなってしまった。そのため、乗務員室扉の色を変えることで識別することにし、EF81形は交直流機であるため赤13号に塗られていた。(EF81 451〔門〕 門司機関区 1991年7月 筆者撮影)


 それが、民営化によって新会社に移行すると、さすがにこの問題を放置したままにすることもできず、リピート・オーダーによって新製された車両から冷房装置を標準で装備し、その後は在来の車両にも冷房装置の追設する改造を進め、機関士の乗務環境の改善を進めることになったのです。
 このように、ある意味では劇的な変化をした450番台ですが、電装品や性能は国鉄時代に製造された0番台や300番台とほぼ同じなので、性能的にも大きな変化はありませんでした。逆に言えば、乗務する機関士や検修作業に携わる検修職員にとっては好都合であり、運転操作や検査手順、修繕作業の方法などは同一であるため、新たな車両のために訓練や教育を受ける必要がなく、それまでの経験と技術をそのまま使えることから、大きな負担もなく受け入れやすかったといえるでしょう。
 1992年になると、450番台はさらに3両が増備されました。しかし、増備車は前年に製造された2両とは異なり、車体前面は従来のデザインに戻されてしまいました。門司区勤務時代に魅了された450番台の増備と聞いて、新鶴見機関区を経由して門司区に回送されることが分かると、あの精悍なマスクをもったEF81形を再び見ることができると、興奮を抑えながら夜の新鶴見区へ見に行きました(もちろん、事前に許可を得て)。
 ところが、東機待線で出発の時を待つ450番台増備車を眼にしたとき、もとのデザインになってしまったことにひどく落胆したものでした。やはり、他の車両と異なるデザインであり、検修職員からは不評だったのだろうか、補修用の部品を確保する手間がかかってしまうのだろうかとあれこれ考えたものでした。
 実際のところは日本海縦貫線用にリピート・オーダーで製造された500番台が、当初は6両を増備するとしてメーカーに発注していたのが、3両の増備で打ち切られてしまい、車体がデッドストックとなってしまったものを活用したことで、453〜455号機は元のスタイルになったのです。

 

1992年に増備された450番台2次車は、特徴的だった前面が0番台と同じに戻ってしまった。これは、本来であれば日本海縦貫線用として増備する予定だった500番台が、3両で製造を打ち切ってしまったことや、6両の増備を計画して既にメーカーにもそのことを指示し、メーカーもそれを受けて500番台用の車体をつくってしまっていたためで、増備の打ち切りによりデッドストックとなったものを流用したためだった。こうした車両の発注方法は国鉄時代の「お役所的」な商慣行の名残りであり、メーカーにとっては注文元であるJR貨物の都合に振り回されてしまうことになった。その結果、一部のメーカーは機関車の製造から撤退するなどにつながり、JR貨物はメーカーとの取引方法を見直さなければならなかったといえる。(出展:写真AC)


 民営化後に新製された5両の450番台は、その後は関門区間用の「銀釜」である300番台と、0番台を関門仕様に改造した400番代とともに、幡生操−門司間の貨物列車を牽く役割を担い続け、時にはJR九州保有する400番台の代打として寝台特急の先頭に立つこともあったようでした。
 1991年に産声を上げ、34年間に渡って走り続けてきたEF81形の末弟ともいえる450番台も、「銀釜」こと300番台303号機、そして400番台とともに2025年にすべての運用から退きました。
 若かりし頃鉄道マンになりたてだった筆者を魅了した、角目のEF81形もその任を全うしたことの功績を称えるとともに、あの特徴あるスタイルの釜の勇姿をもう見ることができないという寂しさを感じずにはいられません。これも時代の流れ、形あるものはいつかは姿を消していくのはこの世の道理ですが、思い入れのある車両が姿を消していくことに、それだけの時間が過ぎたことと己の齢を感じずにはいられません。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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