旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

九州を走った北陸育ちのF級交流電機 EF70形【3】

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《前回からのつづき》

 

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 続いて1963年から製造された2次形では、電装品は19〜22号機と同じとし、機関車出力も2,300kWと変わらないものの、車体外観は大きく変化しました。前面は同時期に製造されていたEF80形とほぼ同じになり、前部標識灯は白熱灯1個からシールドビーム灯2個に変更され、上部左右に1個ずつ振り分けたものになりました。いわば、国鉄電機の標準的なスタイルに落ち着いたといえるでしょう。

 車体側面も変更され、これもEF80形と同形のものになりました。採光用の窓は金属押さえからHゴム支持に変更され、ルーバーもブロック式に改められるなど、保守性の向上が図られました。

 EF70形は1964年までに全部で81両が製造され、敦賀第二機関区と富山第二機関区に配置して、北陸本線の貨客両用の主力機として活躍しました。

 特に2次形が登場してからは、北陸本線田村駅糸魚川駅間を通しで運用するなど、そのパワーと電気暖房用の電源を装備した汎用性の高さから、北陸本線の標準機といえるほどにまで運用の幅を広げ、貨物列車から長距離急行列車に至るまで、あらゆる列車に充てられました。

 一方、いわゆる「ヨン・サン・トオ」と呼ばれる1968年に実施されたダイヤ改正で、EF70形にも大きな転機が訪れました。それまで夜行急行列車として運行されていた「日本海」が特急へ昇格するのに伴い、「日本海」の使用車両も旧型客車から20系固定編成客車へ変更されます。20系客車は「走るホテル」とまでいわれるほどそれまでとは大きく異なる設備を備えた車両でしたが、100km/h以上の高速で走行するため、ブレーキ装置は従来の自動空気ブレーキではなく、ARBE増圧装置付の電磁自動空気ブレーキが装備されました。このため、20系客車を牽引する機関車にも、これに対応した装置である電磁ブレーキ指令回路と編成増圧ブレーキ装置、元空気溜め管引き通しが必須となり、「日本海」を牽引するEF70形にもこれらの装置を追加することになります。

 20系客車を牽引する装置の追設を受けたEF70形は1000番代に区分され、22〜29号機の7両が改造を受けて、1001〜1007号機へと改番・区分変更がされました。

 国鉄特急列車の中でも華形ともいえる寝台特急も牽引するようになったEF70形でしたが、その「我が世の春」は長くは続きませんでした。

 

「走るホテル」とまで賞賛され、長距離夜行列車の質を大きく引き上げた20系客車は、1970年代に入ると後継となる14系や24系などの増備によって、陳腐化が目立つようになっていった。全国に広がる夜行列車網の需要もそれなりに多かったことや、急行列車で使われていた老朽化もあり、その置き換え用として20系が充てられるようになった。20系は高速運転のためにARBEブレーキを装備していたため、機関車側はこれに対応できる機器の装備を必要とした。急行への格下げによって、カニ21形に必要な機器を搭載したカヤ21形が改造製作されると、そうした機関車も必要がなくなった。「日本海」などに20系が投入されることが決まると、EF70形もこれに対応した機器を装備するP形化改造を受けて1000番台が製作された。(©Olegushka, CC0, via Wikimedia Commons)

 

 北陸本線を含む日本海縦貫線は、関西圏と北陸、東北地方日本海沿岸の都市を結ぶ運転系統を指し、東海道本線湖西線北陸本線信越本線羽越本線奥羽本線に跨って運転されています。ここには、大阪駅青森駅間(後に函館駅)を結んだ寝台特急日本海」をはじめ、夜行急行「きたぐに」や寝台特急「つるぎ」、さらには特急「雷鳥」など多くの優等列車が運転されていました。また、旅客輸送だけでなく、貨物輸送に置いても重要な路線で、今日でも北日本と西日本各地を結ぶ高速貨物列車が数多く運転されています。

 その、日本海縦貫線は運転系統としては一つの路線を指しますが、既にお話したように多くの路線にまたがって運転されるため、電化方式もそれぞれの路線ごとに異なる複雑さを併せ持っているのです。

 例えば、大阪駅から青森駅に向かう寝台特急日本海」は、東海道本線山科駅を経て、湖西線近江塩津駅までは直流1500Vですが、山科方にあるデッドセクションで交流電化となります。近江塩津駅から北陸本線に入ると交流20kV60Hzとなります*1北陸本線直江津駅まで通して運転され、糸魚川駅まではこの交流電化ですが、糸魚川駅からは再び直流1500Vに戻ってしまいます。直江津駅からは信越本線に入り新潟駅へ向かうことができますが、日本海縦貫線を通して運転する列車は新潟駅へは向かわず、新津駅から羽越本線へと入っていくことになります。

 羽越本線新津駅−村上駅間はそのまま直流1500V電化のままですが、村上駅からは再び交流電化になり、交流20kV50Hzに変わって、奥羽本線青森駅までこの交流電化となるのです。

 このように、いくつもの電化方式がかわるため、そのたびに機関車の付け替えが必要でした。そして、そのことは列車の到達時間を遅くするばかりでなく、必要な機関車の数も増え、それを運転する機関士や検修をする車両掛の人数も増えていきます。また、配置する機関区の数も増えるので、当然、それに必要な設備や施設も増えていき、管理部門の職員も必要になるのです。

 もっとも、1969年までは機関車の付け替えは、避けて通ることのできないことでした。この当時まで、信越本線は非電化のままでしたが、この年に直流電化がされたことで状況が一変します。

 先にもお話したように、日本海縦貫線は直流〜交流〜直流〜交流となるため、糸魚川以北も通しで運用できる電機が必要となったことで、関西圏から北陸本線まで機関車付け替えをなくして列車を運行できる交直流機のEF81形を製造し、敦賀第二機関区に配置しました。このEF81形の登場はEF70形にとって脅威となり、自らの存在する意義をも追いやるものでした。

 実際、EF81形が敦賀二区に配置されると、東海道本線湖西線北陸本線と通して列車を牽くようになりました。直流区間と交流区間に跨って運行できるEF81形のメリットを活かした運用で、機関車の付け替えを減らして到達時間を短縮させることを実現しました。

 

《次回へつづく》

 

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*1:読者様から誤りをご指摘いただきました。お詫びして訂正させていただきます。