《前回からのつづき》
7000系の設計は技術提携を結んだバッド社の指導のもとで進められたので、それまでの日本の鉄道車両とは一線を画するものでした。車体断面は合理的な思想を優先させるアメリカの会社らしい、単純な構造になりました。特に屋根の曲線は、従来からの日本の鉄道車両では、幕板部は曲線半径が小さく、天井部分に向かってその半径を大きく取るのが一般的でした。そのため、屋根板の加工は工程数が多くなってしまうものの、優美な曲線美をもたせることができました。しかし、バッド社はこれを無駄と考え、7000系では屋根曲線の半径は幕板部から天井部すべてが同じ半径にするように指導しました。こうすれば、屋根板の加工は最小限で済ませることができ、製造コストを軽減できると考えたからだといえます。
また、台車は従来の枕ばねと軸ばねを装着した構造ではなく、バッド社がアメリカで製造していたパイオニアⅢを日本向けに改設計したPⅢ−701(TS-701)を導入しました。この台車は「一自由度系台車」と呼ばれる構造で、枕ばねには空気ばねが使われ、従来通りにボルスタアンカーに接続させているものの軸ばねは省略され、軸箱は側梁に防振ゴムを介して直接取り付けられた構造でした。
軸ばねを省略したことにより部品点数は少なく、構造も簡単になるなどしたことにより、保守作業を簡便にするメリットをもたらしました。また、オリジナルのパイオニア台車は軌間が広いアメリカで用いられたため、台車枠の内側には比較的広いスペースを確保できたことから、主電動機を装着してもブレーキ装置を設置する余裕がありました。しかし日本の鉄道はごく一部を除いて1,067mmという狭軌であるため、PⅢ−701は台車枠の内側に主電動機を搭載してしまうと、ブレーキ装置を取り付ける余裕はありませんでした。
そこで、PⅢ−701は台車枠の外側に車軸と接続したディスクブレーキを装着したことで、ブレーキパッドによって磨かれた銀色に輝くブレーキディスクが露になった特徴的な外観とともに、当時、制輪子の交換作業に追われていた検修職員にとって、点検や修繕がしやすいなど好評だったようです。
台枠や構体、そして車体外板に至るまでステンレス鋼を使った7000系は、アメリカ仕込といえる生産性と合理性を優先させたことで、無骨な外観になったといえます。園っぽうで、ステンレス鋼がもたらした自重の軽量化は、従来の普通鋼製の車両と比べて消費電力の軽減を実現させました。加えて、抵抗制御ではあるものの、主制御器は6000系で採用された東洋電機製のACRF-H860-745A形を搭載しました。
この主制御器は、2両1ユニットを組む電動車に搭載される主電動機8基を、1個の主制御器で制御する1C8Mとしました。起動時には抵抗制御ですが、起動後は分巻界磁制御に移行し、その段数は145段にも及ぶ超多段制御としました。このことで、きめ細かい電圧制御を実現し、可能な限り電力を無駄なく使うことを可能にするなど、コストに敏感な私鉄らしいものでした。
日本初のオールステンレス車両として1962年から製造された7000系(初代)は、東横線と日比谷線乗り入れを前提として開発された。1自由度系台車であるパイオニアIII形(TS-702)を装着し、車体の形状も技術提携をした米国バッド社の指導により屋根の曲線は単一となり、その製造方法も米国らしい効率的かつ合理的であるなど、日本の鉄道車両としては異色の存在ともいえる。全電動車方式であるため、地上線ではその性能は過剰とされてたため、さらなる経済的な車両が求められるようになった。写真は1991年5月頃、日比谷線直通運用に充てられていた7000系7035F。前面には警戒色を兼ねた赤帯が巻かれているほか、「菊名」行きの幕も懐かしい。(1991年5月 多摩川園(現在の多摩川)ー新丸子間 筆者撮影)
後に日立製作所も7000系の製造に加わりますが、こちらは同社製のMMC-HTR−10A方を主制御器として搭載し、直列10段、渡り1段、並列8段、界磁5段と回生43段とし、東洋車と比べて段数こそ少ないものの、回生ブレーキを使うときには100km/hから18km/hまで使うことができ、回生失効速度が低いのでトータルの電力消費量を抑えることを可能sにしていました。
ブレーキ装置は抵抗制御であるものの、主電動機に直流複巻電動機を使ったため、回生ブレーキ併用の電磁直通ブレーキを装備しました。自動空気ブレーキと比べて取り扱いが簡便であり、長大編成にも対応でき、電磁弁を追加したことで応答性も高いため、高速走行からの制動性も高くなりました。加えて回生ブレーキを併用するため、消費電力を抑えることも可能にしたことで、より効率が高く経済性を求める私鉄にとって、当時としては非常に完成度の高い車両となったといえるでしょう。
7000系は地下鉄である日比谷線に乗り入れるため、特に走行性能には配慮されています。地下線から地上に出るところでは、短い距離を一気に駆け上がらなければならないため、自ずと勾配も厳しくなります。そのため、この勾配が厳しい区間を高速で走行することができる性能を求められたため、出力の高い主電動機を搭載するか、電動車の比率を高くする必要がありました。
7000系に搭載された主電動機は、東洋製では出力60kWのTDK-826A形を、日立製では出力70kWのHS-533形とHS-830形を搭載しました。日比谷線乗り入れ運用は主に東洋製の車両で行われましたが、営団3000系と東武2000系がそれぞれ出力75kWの主電動機と比べるとやや低いため、7000系では全電動車式を採用したのでした。(営団3000系、頭部2000系もともに全電動車式)
このように、日比谷線乗り入れのための基準を満たす観点からも、その性能設定には苦心したことが窺えますが、1962年に最初に1編成4両が元住吉検車区に配置になり、東横線での営業運転を前にした試乗会が開催されると、多くの国鉄や私鉄の関係者が試乗したとありました。それだけ、オールステンレス車という未知の構造と、PⅢ−701台車などの新機軸を積極的に導入したことで注目を集めたのでしょう。
ところが、この日比谷線乗り入れのための全電動車方式が、後に問題となってしまったのでした。
東急電鉄は、この最新鋭の7000系を日比谷線乗り入れだけでなく、地上用にも使うことを前提としていました。特に本線格とされた東横線では、電動機出力の高い日立製の車両を急行運用に重点的に充てるとともに、残存していた吊り掛け駆動車である3000系を置き換えていきました。また、田園都市線(現在の大井町線。後に二子玉川園ー長津田まで延伸)にも投入され、言葉通り東急の主力として活躍していました。
しかし、日比谷線乗り入れといった他社との協定に基づく特殊な環境での運用に充てるためとしては必要でも、常に地上線を走行する運用では、必ずしも全電動車方式である必要はありませんでした。しかも、すべての車両が電動車で組成されていることは、その分だけ消費電力が大きくなるので、特に運用コストにシビアな私鉄においては問題視されるようになります。
そこで、東急電鉄は7000系の増備を打ち切り、その運用実績と設計をベースに、より経済性を重視した新たな車両を開発、投入することにしました。これが、東急として二番目のオールステンレス車となる7200系でした。
《次回へつづく》
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