《前回からのつづき》
碓氷峠の特徴は、群馬県側から長野県側に向かって僅か10kmで500mもの標高差があることです。横川駅の標高は387.7m、軽井沢駅の標高は941.0mと駅間距離が僅か11.2kmの間に553.3mにのぼる高低差があることからも、その険しさが想像できるでしょう。さらに、これを勾配を表す千分率で計算をすると、平均勾配は55パーミルにもなります。鉄道線路は常に一定の角度で勾配をつくることは地形などの条件もあってできませんから、最大勾配が66.7パーミルになるのも頷けることといえます。
パーミルという単位では想像がつきにくいので、これを角度に換算すると平均約3.3度、最大で約3.8度になります。分度器で3.3度とか3.8度とかを測ると「なんだ、これくらいか」と思われるかもしれません。しかし、鉄道車両にとってこの3度という角度は非常に険しく、列車重量(1編成あたりの全重量)によっては登坂することすら難しく、ともするとその重量が重力によって引っ張られてしまい、最悪の場合、登るどころか坂を転げるように落ちてしまうことになります。
これだけの勾配を粘着式鉄道で登り降りするためには、相応の性能をもった車両が必須であることは言うまでもありません。しかしながら、信越本線が開業した当時はそれを満たす性能をもった車両はなく、技術的にも非常に難しいものがありました。そこで、欧米で登山鉄道用に開発されていた、普通の軌条の間に歯車を噛み合わせる歯軌条を組み合わせたラック式鉄道を建設することで、この難問を解決したのでした。
ラック式鉄道は、普通の軌条の間、すなわち線路の中央にラックと呼ばれる軌条を敷き、それに車両に設けられたピニオンと呼ばれる歯車を噛み合わせることで登坂に必要な推進力と、降りる時に必要な制動力を得るものです。機械的にラックとピニオンは噛むように接続されているので、粘着式鉄道の用に摩擦力に頼る必要もないので、確実に推進力や制動力を得ることができます。
その反面、軌道にはラックレールを設置しなければならず、特に分岐器などは構造が複雑になるため、建設費や維持管理にかかわる運用コストも大きくなります。また、車両側もピニオンを動輪軸に設置するため、やはり構造が複雑になり製造費も高くなります。加えて、その特殊な構造であるがゆえに、あまり高速で走ることができないという欠点を抱えることになるのです。それゆえ、他の区間で運用される車両と共通運用することも難しくなるので、運用コストも自ずと高くなってしまうのです。
しかし、背に腹は代えられないと、このラック式鉄道を碓氷峠区間に導入したのでした。
開業当初はラック式の中でも、アプト式の構造を採用した専用の蒸機が製作、運用に充てられました。ドイツから購入した3900形(軸配置0−6−0(C) シリンダ引張力8,620kg)や3920形(軸配置2−6−0(1C) シリンダ引張力8,620kg)、イギリスから導入した3950形(軸配置2−6−2(1C1) シリンダ引張力9,310kg)、さらには3,950形を汽車製造で模倣製造(デッドコピー)した3980形(軸配置2−6−2(1C1) シリンダ引張力9,310kg)を横川機関庫(→横川機関区→横川運転区)に配置して、この急峻で狭隘な碓氷峠を通過する列車に充てたのでした。
蒸機時代に碓氷峠区間用として、イギリスのベイヤー・ピーコック社で製造・輸入された鉄道作業局C3形蒸気機関車。車番は510号とされ、後に鉄道院へ改組されたときに3950形3954号となった。軸配置1C1のタンク機関車だが、ボイラー室の両脇は大型の水タンクに覆われている。(パブリックドメイン)
こうして、一応の解決をみた碓氷峠区間の鉄道ですが、実際には多くの問題を抱えていました。
連続した急勾配を抱え、しかも険しい地形も相まって、この区間ではトンネルが26か所も設けられていました。そして、勾配を登るために蒸機であるこれらの車両は、常に燃料の石炭を投入して燃やし続けなければなりませんが、このトンネルのために吐き出されるばい煙が、乗客はもちろん、乗務する機関士たちも苦しめたのでした。
勾配区間に存在するトンネルを通過する蒸機は、この碓氷峠区間だけでなく、全国の同じような路線で、吐き出されるばい煙により機関士たちの執務環境は過酷で劣悪なものとして問題になっていました。そして、もっとも恐れることとして、そのばい煙によって乗務中の機関士や機関助士が一酸化炭素中毒によって死傷する事故も多発していたのでした。
もちろん、鉄道当局も何もしなかったわけではなく、あらゆる手を尽くしていました。トンネル通過時に、列車が入るとすぐに抗口を天幕で閉鎖し、ばい煙が車両にまとわりつくのを防止したり、機関車の煙突を特殊な形状にして、ばい煙を後方へ導き機関士たちが一酸化炭素中毒にならないようにしたりするなどしましたが、どれも決定的な効果は得られませんでした。
加えて、この区間を通過するのに1時間15分もかかるという所要時間の長さは、信越本線のボトルネックとなっていました。特に列車1本あたりの列車重量に制限があるため、連結できる数も限られていました。そのため、所要時間のかかる低速運転を強いられていたこの区間では、列車の運転本数を増やすわけにもいかず、かといって連結両数も増やせないということが枷になって、輸送力の確保が難しかったのです。
こうしたことから、鉄道院は1893年に開業してから19年が経った1912年に、碓氷峠区間を直流電化し、蒸機から電機へと代えることで、これらの問題の解決を図ることにしたのでした。
この碓氷峠区間の電化は、図らずも国鉄の幹線鉄道で初めての電化になったのです。
《次回へつづく》
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