旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

峠に挑んだ電機たち《第1章 国鉄最大の急勾配の難所・碓氷峠》【5】

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《前回からのつづき》

 

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 しかしながら、前述のように故障が頻発することは悩みの種になっていたと言われています。10000形が開発されたのは1912年で、ヨーロッパでも蒸機が主力で電機はまだ試作の域で、加えて10000形を製造したエスリンゲン機械工場はアプト式機関車を数多く製造したといっても蒸機でのことで、電機の製造実績は皆無に等しかったこと、さらに電気品をつくったAEG社ともども電機の経験が少なく、日本の鉄道、特に碓氷峠区間に関する理解が少なかったことがその要因だったと考えられます。

 1912年から運用が始められた10000形は、数々の故障に悩まされながらも現場の技術職員の試行錯誤による改善の成果もあって、徐々にそうしたことも少なくなっていきました。1928年に車両称号の規程が改正されると形式名も10000形からEC40形へと変わり、連結器をねじ式から自動連結器への換装、真空ブレーキから自動空気ブレーキへ変更、構内で使う屋根上の集電装置をポールからパンタグラフへの取り替えなどが実施されるなどの改良も進められて、1921年に増備車となる10020形(ED40形)が配置されると、いよいよ碓氷峠区間の全列車が電機による運転へと変えられ、10000形は難所を越えるすべての列車を支えたのでした。

 10000形はお召し列車運行に充てられるという栄誉を浴したことがありました。

 1818年に当時の皇太子(後の昭和天皇)が碓氷峠を視察された際にご乗用になったお召し列車に、10004号機がその補機として指定されました。このときの本務機は10002号機でしたが、いずれにせよ、お召し列車運行に充てられることは、国鉄の車両にとって最高の栄誉だといえるでしょう。

 しかしながら、このときの補機を務めた10004号機は、その生涯は幸運ばかりとはいかず、このお召し列車運転よりも約3か月ほど前には、信越本線熊ノ平駅で起きた列車脱線事故にも遭っています。

 1818年3月7日、信越本線熊ノ平駅構内で停車中だった下り貨物列車(10000形機関車重連・本務機10004号機、前補機10007号機、貨車10両、車掌車1両の計13両編成。換算12.8両=128トン)が、軽井沢方に向かって走行を始めたところ、本務機の10007号機が主電動機から異臭を発し、次いで異音と火花を伴った発煙が起き、碓氷第21隧道内で緊急停車しました。その後、ブレーキ緊締をした上で車両点検を行った結果、機械部分に故障が認められたものの、粘着運転によって運行を継続することにしました。

 しかし、乗務員が機関車に乗り込んだ直後、列車は退行しだしてそのまま暴走状態に陥ってしまいました。機関士らは発電ブレーキを作動させたり手用帯ブレーキと手ブレーキを緊締させるなど列車を停車させる措置を行ったものの、66.7パーミルという急勾配の前にそれらは効果を発揮することができず、それどころか発電ブレーキは高速で暴走してしまったために主電動機が破損し、悪いことには手用帯ブレーキには主電動機などから飛散した潤滑油が入り込んでいたため制動力を失い、そのまま熊ノ平駅の側線に突入し大破しました。

 この事故で、木造の貨車は言葉通り原型を留めないほどに粉砕され、鋼製の2両の機関車も脱線大破、乗務員1名と駅の転轍掛1名の計2名が即死、補機機関手と車掌の2名が重傷を負った後に死亡、乗務員4名が負傷するという惨事になりました。

 大破した10004号機は修復されて運用に復帰したものの、10007号機は1936年にEC40形が全機廃車となった際に除籍されていますが、実際に修復されたのかは定かではありません。あくまでも推測ですが、修復はされずにそのまま留置されたか、あるいは修復はされたものの事故機にありがちな状態不良車となって、あまり運用されることなく留置されたのではないかと考えられます。

 このような惨事を起こしたこともありましたが、10000形はその後も碓氷峠シェルパとしての活躍を続け、1936年4月までに全機が廃車となり、25年の歴史に幕を閉じて形式消滅しました。

 

信越本線碓氷峠区間を走る10000形牽引の列車。機関車は2両連結されているが、この当時に運用は、麓となる横川方に1両、5両の客車を挟んでもう1両を連結することで、最大140トンの列車を牽くことができた。レールとレールの間にはアプト式のピニオンが、右側の擁壁の際には直流600Vを供給する第三軌条も見える。(パブリックドメイン

 

 廃車後、EC40形のうち1号機(10000号機)が京福電気鉄道に払い下げられました。京福ではテキ511形となり、アプト式駆動装置など特殊な装備が取り外されて、粘着運転専用の電機となって貨物輸送に使われましたが、払い下げられた4両のうち、実際には2両(EC40 1号機、EC40 2号機)が運用されただけで、残りの2両(EC40 3号機、EC40 4号機)は運用されることなく部品取り用として活用されたそうです。後に、京福のテキ511号機は1964年に廃車とされ、代わりに国鉄からED28形を払い下げられたのと同時に返還、かつて修繕などを受けた古巣の大宮工場に送られ、同工場の70周年記念行事の一環として10000形登場時の姿に復元、さらに同年10月14日に鉄道記念物の指定を受けたことで保存されることが決まりました。

 現在、軽井沢駅構内にある旧軽井沢駅駅舎記念館に保存、展示されているので、かつての峠越えの頼もしい姿を見ることができます。また、EC40 2号機はそのまま京福で運用され続け1970年に廃車、そのまま9年間保管された後に1979年に解体され、輸入から数えて68年という国鉄保有した電機でも最大級の長寿をまっとうしたのでした。

 

 

《次回へつづく》

 

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