《前回からのつづき》
◆初の国産電機 10020形(ED40形)アプト式直流電機機関車
10000形が碓氷峠区間に投入されたことにより、信越本線の輸送力は確実に向上しました。そして、蒸機運転につきまとっていた煤煙のために、乗務員が窒息する危険も減ったことで、執務環境も大幅に改善することが現実となっていきます。また、客車列車に乗車する利用客にとっても、煤煙がなくなったことで快適な旅行を可能にしたのです。
しかし、10000形は総勢で12両と少ないため、一部では従来の蒸機牽引による列車も残っていました。加えて、輸送量が減ることはないものの増える一方だったことで、急勾配を擁した碓氷峠は変わらずボトルネックとなっていたのでした。
そこで、残存する蒸機を淘汰し、碓氷峠区間を通過するすべての列車を電機に置き換えるために、鉄道院は新たなアプト式電機を開発することを計画します。
この電機の増備に際して、欧米の電機メーカーからは多くの売り込みがあったといいます。いまだ発展途上であった日本の鉄道は、欧米のメーカーからすれば市場を広げるチャンスだと捉えたのでしょう。当時の日本の技術力では電気機関車のような大電力を動力源にした鉄道車両をつくることなど難しく、中央本線の前身である甲武鉄道が本格的に電車を導入したのが1904年なので、それから6年しか経ってない1919年の時点で、技術力も経験も乏しかったので、当然の成り行きとも言えたのです。
それでも、鉄道院をはじめ、関係者たちは国産の機関車を望みました。それまで経験のない車両を開発し製造するのは様々な意味でハードルが高く、誤解を恐れずに言えば「高望み」だともいえます。しかし、国産化を実現させる理由はいくつか考えられ、自国の技術力を向上させることで、外国に頼らずに安定的な車両を供給させること、当時の鉄道は軍事力にもつながっていたので、万一、車両や部品を供給する国と戦争状態などに入れば、それらを入手することが困難になり、安定した運用が望むことが難しくなる戦略物資であったこともそうした考えになったといえるのです。
かくして、鉄道院は碓氷峠区間で使用する増備用の電機として、国産の10020形を開発したのでした。
もっとも、この10020形を開発するための技術をもっていなかったので、すでに碓氷峠区間で運用していた10000形を参考にしたといえます。10000形は動輪軸3軸の小型C級電機で、2基の主電動機を搭載し、そのうち1基を粘着運転用として、もう1基をラック運転用として使い、それぞれ歯車で減速させたうえで、歯車に取り付けられた連結棒で動輪軸とラック用のピニオンに連結し、この連結棒によって動力をそれぞれに伝えていました。また、粘着運転用の動輪軸は蒸機のようにロッドで繋げられていた、ロッド式の動力伝達機構を備えていたのでした。
10020形も10000形の構造を踏襲し、2基の主電動機を搭載して粘着運転用として1基を、ラック運転用として1基をそれぞれに使う方式でした。
他方、10000形は動輪軸1軸であったのに対し、10020形は動輪軸4軸のD級電機とされました。これは、10000形と比べて搭載する機器などが大型だったことで自重が増え、そのことによる増えてしまった軸重を軽減させるためのものだったと考えられます。
主電動機には10000型に搭載されたMT3形をベースに改良された、出力240kWのMT3A形が2基搭載され、粘着運転時の機関車出力は240kW、ラック運転時には480kWと僅かに向上しました。
鉄道院(→鉄道省→国鉄)で初めての国産電機となった、アプト式の10040形(後にED40形)は、10000形の構造や運用実績をもとに設計さて、鉄道院大宮工場(現在の大宮総合車両センター)で製作された。足回りは10000形と同様に、直径の小さい動輪軸を装着し、動力は各車輪と主電動機をロッドでつないで動力を伝えていた。(パブリックドメイン)
主電動機の改良により、機関車出力は強化されましたが、定格速度は10000形と共通の運用や混結することを想定して、僅かに向上させた15.0km/hに抑えられました。また、動力伝達方式も10000形を基本としていましたが、不具合が起きていたところには改良も加えられ、信頼性を向上させました。
集電方式は機関区や駅構内での運転時にはパンタグラフから取り入れる架空電車線方式が使われ、本線運転時には片側2か所に設けられた集電靴から取り入れる第三軌条方式が使われました。いずれも、直流600Vの電流を使うもので、この点では10000形と同じ方法が採用されました。
制動装置は10000形は製造時に真空ブレーキを採用していましたが、後に自動空気ブレーキに換装されています。10020形は新製時から自動空気ブレーキを装備するとともに、真空ブレーキから自動空気ブレーキへの移行期間でもあったため、真空ブレーキも装備していました。このブレーキが使われなくなったのは1933年まで待たなければならなかったので、10020形が登場してから24年後にようやくこの旧式ブレーキの使用を停止することができました。加えて、10000形同様の発電ブレーキも装備されていて、特に坂を下りる上り列車での制動力を確保していました。
《次回へつづく》
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