《前回からのつづき》
車体は国鉄形電機としては珍しく、おそらく唯一の運転台を横川方1か所だけに設けられた箱型車体でした。これは、10000形が登場時には横川方だけでなく軽井沢方にも運転台が設置されていましたが、実際の運用では横川方だけしか使われなかったことから、10020形では新製時から片側だけに運転台を設置したのです。
このような片側だけに運転台を設けたのは、急勾配が連続する碓氷峠区間では、本務機、補機ともにすべて横川方に連結していたことに由来します。蒸機時代はラック区間に入る横川駅または軽井沢駅で機関車を交換し、ラック式運転ができる車両が本務機を務めていました。しかし、すべての列車は横川方に機関車を連結、それが登坂する下り列車でもその位置に連結していたため、推進運転となっていました。下り坂を下りる上り列車も同様に横川方に機関車を連結していましたが、この場合は列車の先頭に立っている形になりました。もっとも、こうした特異な運転形態を採っていた理由として、急勾配では列車重量が最後尾の車両にのしかかってしまうため、軽井沢方に機関車を連結すると、連結器に極端な引張力がかかってしまいます。そうすると、連結器がその強烈な引張力に耐えきれなくなり破損してしまう危険性があったのです。連結器が破損してしまうと、最悪の場合は列車が分離してしまいます。平坦線でもこの列車分離という事故は深刻なものですが、急勾配の碓氷峠区間でこの事故がひとたび起きれば、切り離されてしまった車両は有効な制動力を失ったまま、重力に引かれて勾配を転がり落ちるよう暴走してしまい、最後は脱線転覆事故を起こす危険があったからでした。
その点において、勾配のもっとも下にあたる横川方に機関車を連結しておけば、連結器に極端な引張力は加わらなくなります。下から機関車が押し上げていくので、引っ張るのとは反対方向の力が連結器にかかるだけで済みます。また、万一、連結器が破損して列車分離が起きたとしても、重量が重くて動力をもった機関車がそれを支えるので、重大な事故を起こす可能性は0ではないにせよ相当減らすことができるのです。
こうしたことから、横川方に連結された機関車に乗務する機関士は、機関車の横川方に設けられた運転台に乗り込んでいました。この特殊な乗務方法は、後にラック式から粘着式に切り替えられてEF63形が碓氷峠区間のシェルパとなっても続けられ、客車列車や貨物列車の本務機となるEF62形は、下り列車では軽井沢方に連結され、機関士はその先頭となる方向の運転台に乗務していましたが、後補機となるEF63形の機関士は横川方の運転台に乗務し、進行方向とは逆を向いて運転操作をしていました。
国鉄(当時は鉄道院)が初めて導入した国産電機は、碓氷峠区間用のアプト式である10020形だった。輸入機である10000形(EC40形)の実績をもとにして製造された車両だが、10000形が輸入機らしいモダンなデザインとなる車体をもっていたのに対し、10020形は工作数を減らすためか、それとも実用本位だったのか、なんとも無骨な外観をもっていた。いずれにしても、当時の工作技術のレベルを表すかのように、粗雑な造りにも見える。(©Osamu Iwasaki from Tokyo, Japan, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)
このような経緯から、10020形も横川方に連結され、機関士も上り向きの運転台に乗務していました。そのため、不要だと考えられた軽井沢方には、運転台やそれに準じた乗務員が立ち入るスペースはなく、代わりに主抵抗器が搭載されていて、さらに車体上半分が僅かに突き出た独特の形状でした。この主抵抗器を搭載したスペースには、冷却風の取り入れと排熱を放出することを意図したルーバーがぎっしりと取り付けられていて、物々しく非常に稀な車体構成とデザインだったのです。
機関士が乗り込む横川方には運転台が設けられていましたが、その前面のデザインは切妻で、3枚の前部窓が設置されただけという、非常にシンプルなものでした。10000形では機関士は車両の中心にある運転機器を操作していたため、中央部の窓が大きく、その両脇には小判型の小さな窓が左右1か所ずつ取り付けられていたモダンなものでした。その一方で、初の国産電機である10020形は、車体製作の工数の削減のためか、それとも金属加工の技術力がそこまで達していなかったためか、直線的で無骨なデザインでした。もっとも、電機として使えれば問題はないと考えられたのでしょう。
10020形を語る上で、もう一つ特筆しておきたいのは、国産であると同時に、14両すべてが大宮工場(現在の大宮総合車両センター(東)/大宮車両所(貨))で製造されたということでしょう。初の国産電機ということもあって、車両メーカーでは電機を製造する技術をもっていなかったことも一因であると考えられますが、同時に、蒸機をはじめとする様々な車両を製造することに集中させ、未知の車両である電機の開発と技術の習得は、まずは鉄道院自身が担うべきという方針だったと考えられます。
かくして、国産初の電機である10020形は、信越本線の横川機関区に新製配置となり、10000形とともに最大の難所である碓氷峠を越えるすべての列車に連結され、この区間の輸送力増強の一躍を担いました。それとともに、10000形が就役してもなお残存していた蒸機をすべて置き換えたことで、機関士たちや乗客を悩ませていた煤煙から開放することができたのでした。
《次回へつづく》
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