《前回からのつづき》
碓氷峠区間に残った蒸機を淘汰した後は、10020形は10000形とともにここを通過する列車に連結され、下り列車では後ろから押し上げ、上り列車では急坂を下る際の強力なブレーキ役として活躍を続けました。また、牽引定数も引き上げられていき、1列車あたり4両から5両の専用電機が連結されて、碓氷峠を安全に登り下りさせるとともに、所要時間を短縮させる任を果たしたのでした。
急勾配を登り下りする過酷な運用を続けたことなどから老朽化も進んでいき、後継となるED42形が増備されてくると、10000形とともに徐々に姿を消していくことになります。第二次世界大戦中の1943年に、10020形から改められたED40形の廃車が始まり、最終的には1953年3月に最後まで残った13号機の廃車をもって、後をED42形に託して国鉄最大の隘路から姿を消していき、34年の長きに渡る歴史に幕を閉じたのでした。
一方、廃車となったED40形は、国鉄での役割は終えたものの、一部は私鉄に払い下げられたことで、第二の職場を得ることができました。東武鉄道へは2両が、駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線に3両が、そして南海電気鉄道には2両がそれぞれ移籍していきました。その差異、これらの鉄道事業者では碓氷峠区間で必須だったラック式の装備をすべて撤去し、形式名も移籍先の鉄道事業者の実情にあったものへと変えられました。しかし、前述のようにED40形は碓氷峠区間では横川方にのみ運転台が設置され、軽井沢方には運転台はなく、大型の主抵抗器室があったので、これら譲渡先でも片運転台の電機として運用されましたが、その使い勝手の悪さからか、伊豆箱根鉄道駿豆線に移っていった3両は、西武所沢車両工場で大改造を受けて反対側にも運転台が増設されて両運転台をもつ電機としてさらに走り続けたのでした。
加えて南海電気鉄道に譲渡された2両は大規模な改造が施されて、従来の箱型の車体から、中央部に機関士が乗務する運転台がある、凸型車体に載せ替えられてしまったので、原型を留めないほど変化してしまい、まったく別の車両といっても不思議ではないほどでした。
10020形は運転台を備えた乗務員室は片側のみ設けられていた。これは、碓氷峠区間においては機関士は常に麓側となる横川方に乗務していたためで、軽井沢方に乗ることはなかった。そのため、10000形では軽井沢方には運転台はなく、10040形では誰も乗らないスペースは無駄であると考えたことや、機器が大型であったためそれを載せるスペースを確保するため、思い切ってすべて機器室にしたものと考えられる。(©Rsa, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
他方、東武鉄道に払い下げられた2両は、主に日光軌道線の貨物列車の運用に充てられました。こちらは、国鉄時代の片運転台のまま運用されましたが、かなり無理があったようで、勾配を登るときには推進運転となったようで、主抵抗器室側が最後尾になったため、車掌などがそこのステップ「ぶら下がる」形で乗務していた記録が残っています。もちろん、危険極まりないことなので、現代の鉄道では許されないことですが、当時はこうしたことが日常茶飯事だったのかもしれません。
国鉄から払い下げられたこれらのED40形は、駿豆鉄道に移籍した11号機が、岳南鉄道(現在の岳南電車)に譲渡されて1973年まで活躍した後に廃車となり、1919年に誕生してから54年の長き渡る歴史に幕を下ろしたのでした。
しかし、ED40形やそれを出自とする譲渡電機の活躍は終焉を迎えましたが、東武鉄道に払い下げられた10号機は1968年に廃車となった後、国鉄に寄贈されました。そして、大宮工場(現在の大宮総合車両センター)において復元工事が施されて、再びED40形時代の姿を取り戻し、準鉄道記念物の指定を受けて保存されることになりました。
国鉄時代は大宮工場で保存され、民営化後はJR東日本がそれを継承して引き続き大宮で保存されていましたが、2007年に開館した鉄道博物館に収蔵となり展示されているのはご存知のことでしょう。そして、2018年には文化庁の諮問機関である文化審議会がED40形10号機を重要文化財に指定する答申をしたことで、この年の10月に国指定の重要文化財に指定されました。鉄道関係で国指定の重要文化財に指定されたのは、多くが駅舎や橋梁などの建築物で、車両では1号蒸気機関車や1号御料車(初代)など少ない中で、ED40形は同じ電機であるED16形1号機(青梅鉄道公園に保存)だけであることから、稀に見る栄誉を授かったといえるのです。
《次回へつづく》
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