旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

峠に挑んだ電機たち《第1章 国鉄最大の急勾配の難所・碓氷峠》【10】

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《前回からのつづき》

 

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 先輩機であるEC40形が小型でモダンなデザインの車体であったのに対し、国産のED40形は車体製造の技術が関係したのか、平面を基本に角張った構造の無骨な印象をあたえる車体でした。再び輸入機となったED41形は、ヨーロピアン調の洒落たデザインの車体でした。機関士が乗務する横川方は3枚構成の折妻のデザインで、そのうち山側には貫通扉が設けられていました。この扉は重連時などに機関士が他の車両へ乗り移るときに使うことは考慮されてなく、あくまで機関士がED41形に乗り降りするための乗務員室扉の役割でした。そのため、前面下部には小さいながらもデッキが取り付けられており、機関士たちが車内への出入りが少しでもしやすくするためのものと考えられますが、登場時は手すりとして棒が1本あるだけだったので、もしかすると誤って落下する労働災害事故があったと推測できます。そうした事故への対策のためか、後年になり横川方にはデッキ部全体に渡る手すりが増設されたことで、その印象も大きく変わっていきました。

 一方、軽井沢方のデザインは、横川方とは大きく変わり、切妻の平面的な印象のものでした。もっとも、軽井沢方には機関士たちは乗り込むことはなく、運転台すら設けられていません。EC40形やED40形以来、碓氷峠区間の機関車は、横川方に機関士たちが乗務してハンドルを握るので、軽井沢方に運転台を設置する必要はなかったのです。それでも、ED41形の軽井沢方には3枚の窓が設置され、その中央には貫通扉らしき扉が設けられていました。そして、この軽井沢方の運転台のような部分には、電動発電機と真空ポンプといった補機類が設置されていたことから、横川方の運転台以外はすべて機器室とした車内レイアウトになっていました。

 側面はスイス製らしく、機能的で無駄のないつくりとなっていたといえます。採光用の窓は国産機であるED40形のように角張ったものではなく、下辺の角は直角ですが、上辺の角は丸みを帯びたヨーロッパ調の洒落たデザインでした。外板も、ED40形では多数のリベットによって外板を取り付けたものではなく、比較的大きな外板をバンドで押さえ、それを固定するのは必要最小限のボルトを使うといったスッキリとしたものとなっていました。

 

ED41形はスイスのブラウン・ボベリ社とスイス・ロコモティブ・アンド・マシン・ワークス(SLM)で製造された輸入電機だった。アプト式電機としてはこの1形式のみだったが、国鉄の電機黎明期にはスイスから輸入された車両があった。ED12形もその一つで、スイス製らしい外観が特徴だといえる。国鉄では1949年まで運用された後に廃車となったが、西武鉄道に払い下げられて形式もE51形と改めるともに、塗装も後に西武鉄道の電機標準色であるローズレッドに塗り替えられた。西武では1987年まで運用されたが、後継となるE31形が新製増備されたことで全2両が廃車となり、E51形51号機がその後も横瀬車両管理所に静態保存されている。1923年に新製されてから1世紀も経った100年前の車両が、令和の時代に至るまで良好な状態で保存されていることは特筆に値する。(©Rs1421, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 ED41形を特徴づけたのは、屋根上の車端部に設けられた元空気ダメ管だといえるでしょう。各エンド、それぞれ2本づつ、合計で4本の大きな円筒形のものですが、これを屋根上に設けたのは機器室内にこれを設置することができないためだったと考えられます。側面のスッキリとしたものに比べ、屋根上は直流機の割には非常に賑やかで、少し物々しさを感じさせるとともに、ED41形の大きな特徴の一つといえます。

 こうした多くの特徴があるED41形でしたが、横川機関庫に新製配置されると営業列車ではなく、試験列車としての運用が多かったそうです。もともとサンプルとして輸入し、今ではあまり褒められることではないリバースエンジニアリングのため、電装品やラックのピニオンといった機械品の動作や性能を確認するためだったのでしょう。この実績が、後に登場する碓氷峠区間用として大型化と高出力化を企図した国産機であED42形の開発へとつながっていくのです。

 試験列車としての運用が終わり、一通りのデータなどを収集し終えると、ED41形はそのまま営業運転に充てられるようになりました。そして、EC40形やED40形とともに、碓氷峠を越える列車のシェルパとして活躍しますが、やはりサンプルとして輸入されたこともあって、多くの試験にも使われました。

 中でも特筆すべきことに、ED41形をつかった粘着式のみによる試験でした。この試験は、第二次世界大戦前の1929年と1938年の2回にわたって行われましたが、その理由として、ラックとピニオンの摩耗が激しく、交換などの保守にかかるコストが高くなっていたことから、ラック式運転ではなく粘着式運転で碓氷峠の急勾配を登り下りすることが可能なのかを調べるものでした。

 こうして、ED41が多くが試験に供されながらも離行運転に充てられたものの、どちらかというと試験列車のほうが多かったという記録があり、粘着紙木の実による試験運転もその一環でした。これらの試験はいずれも保守コストのかかるラック式からの脱却を目指したものでしたが、ED41形を用いた試験ではいずれも制動力への不安から実用化は難しいという判断となり、碓氷峠区間の粘着式運転は戦後へ持ち越されることになりました。

 そして、ED41形の技術的な調査から得た知見と、実際の運用実績が、国産機であるED42形の開発へとつながるのでした。

 

《次回へつづく》

 

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