《前回からのつづき》
◆国産アプト式電機の真打ち ED42形
国鉄初の電機であるEC40形や、初の国産電機のED40形、さらにサンプル機として輸入したED41形をあわせて28両体制で国鉄最大の難所である碓氷峠区間の輸送を支えてきましたが、旅客も貨物も長距離輸送の第一選択肢だった鉄道の需要は大きく、特に東京方面から上信越、北陸方面への幹線ルートだった信越本線の輸送力のさらなる増強が望まれていました。
しかし、最大66.7パーミルという急勾配を擁する碓氷峠区間は、1列車あたりの列車重量に制限があり、これに応えるためには高頻度運転をするか、牽引する機関車を強力にすることが必須でした。高頻度運転をするためには、列車1本あたりの運転速度を上げる必要があります。同じ速度でも高頻度運転をすることは理論上可能ですが、閉塞区間を短く区切ることが必要になるとともに、碓氷峠区間のような急勾配の路線では万一、何らかの理由で速度超過をして列車が逸走した場合に備えて保安ブレーキの性能を上げる必要があります。当時の技術ではそうした性能を向上させることは難しく、列車同士の間隔を空けることは避けられないため、閉塞区間を短くして列車の運転頻度を上げることは現実的ではありませんでした。また、ラック式鉄道の宿命から運転速度を上げることが難しいため、輸送力を増強させるためには、列車1本あたりの定数を増やすほかなかったと考えられるのです。
また、碓氷峠区間で使われている電機は、既に述べたようにEC40形やED40形、ED41形と3車種にも及んでおり、これに乗務する機関士や機関助士、検修を担当する車両掛や検査掛、運用に携わる部門の職員は、それぞれの形式の特性や構造、取扱方法などに熟知しなければならないため、手間とコストがかかっていました。
そこで、こうした碓氷峠区間の特殊な環境や、運用する車両の形式を統一して合理化し、同時に輸送力の増強を図るために新たなアプト式電機としてED42形が開発されたのでした。
国鉄で運用されたアプト式電気機関車は、EC40形、ED40形、ED41形、そしてED42形ので4形式であったが、ED41形を除いて保存されているので、アプト式が廃止なってから半世紀以上がたった今日でも、その姿を見ることができる。ED42形1号機は国鉄時代に準鉄道記念物に指定されたため、横川機関区の庫内で静態保存されていたが、1987年に動態復元された。イベントなどでは動く姿も見られたが、再び静態保存となって、2025年現在は旧横川運転所を改装した碓氷峠鉄道文化むらに保存されている。ピット線が設けられているため、下回りの実際の構造を観察できる貴重な展示だといえる。(ED42 1〔横〕 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)
1933年から製造が始められたED42形は、サンプルとしてスイスから輸入されたED41形を基本として、実際の運用などで出てきた課題を解決しながら国産化したものでした。サンプルとは聞こえはよいですが、現実にはリバースエンジニアリングによるコピーであり、知的財産権に敏感になった現代ではけして採られない手法でした。それだけ、当時の日本では、知的財産権に関する知識や意識が希薄だったことが窺えます。
そのため、基本構造はED41形とほとんど同じであり、車体のデザインや構造、制御機器などの電機品を鉄道省の標準化されたものを採用しました。そのため、車体外観はEF53形やED16形などに通じる設計になり、直線的で製作にかかる工数を極力抑えた無骨な実用本位のものになりました。一方で、運転台のある横川方は車体幅が2800mmであるのに対し、機器室の部分は2600mmと200mmも広げられています。これは、ED41形と同様の構造としたためで、下り列車、すなわち碓氷峠を登る時には軽井沢方を先頭にするため、横川方にのみある運転台に乗務した機関士が後方を確認しやすいようにしたためで、運転台部分のみがこのように幅を広くとられたのでした。
横川方の運転台部分のみでみると、車体幅は2800mm、車体高は2060mmとされましたが、この寸法はEF53形やED16形と同様の、鉄道省標準の寸法とデザインに通じるものがありました。他方、前面はEF53形やED16形では中央の乗務員出入口扉部分が膨らんだ折妻であったのに対し、ED42形では平面の切妻構造でした。機関士たちが車内に出入りするための扉も山側に寄せられたため、機関士席は車両の右側に設けられた特殊な構造でした。これは、機関士は常に横川方に設けられた運転台に乗務するため、下り列車で登坂するときに進行方向に向かって左側になるようにしたためでした。また、本線用の電機は先輪のある構造であったため、この部分にデッキが設置されていたので、車内への出入りも比較的楽で、特に雨天など悪天候時には傘を差したままでも苦労は少なかったと言います。しかし、ED42形はそうした先輪もデッキもなく、車両の端に設けられた細いステップを使い、足場程度にしかない細い踏み板を使って車内へ出入りすることになるため、特に悪天候の時にはその間だけでも濡れてしまうなど、碓氷峠区間で乗務する機関士の苦労が偲ばれるでしょう。
また、車体の外板は、従来はリベットによる接続と貼り付けが主流でした。EF53形やED16形では、外板に多数のリベットが打たれたことで、凹凸のあるものでしたが、ED42形では溶接を多用した組み立てが作用されました。溶接による組み立てでは、工数が削減されて生産性が向上するとともに、リベットの分だけ重量を削減することができます。また、万一、事故などで破損しても修復が容易になるなどのメリットがあります。この溶接による組み立ては、本線用では1935年に登場するEF11形からだったので、ED42形は当時の最新技術を取り入れて製造されたことになります。
戦前に製造された多くの「省形電機」と呼ばれる電気機関車は、車体や台枠など多くの箇所でリベットによる接合が使われていた。この工法では、接合部を重ねるため鋼材を多く使うことや、リベットの分だけ重量が重くなることが避けられなかった。ED42形の車体は戦前製の電気機関車としては数少ない溶接を多用したもので、外観がスッキリとしただけでなく、使われる鋼材の量も減り、リベットの分の重量もなくなるなど軽量化と工作数の削減を実現した。(EF53 2 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)
他方、運転台の機器配置はED41形とほぼ同じにするなど、乗務する機関士への配慮がみられました。しかし、搭載した機器はED41形ではスイス製であったのに対し、ED42形は国産の鉄道省標準のものが採用され、大幅に変更されました。そのため、ED41形の最大の特徴でもあった屋根上に取り付けられていた元空気だめは機器室内に収容され、屋根上は非常にすっきりした印象に変わりました。
その屋根上には、粘着区間で集電をするパンタグラフが1基、横川方の運転台上に設置されていました。PS11Aはばね上昇・空気下降式のPS11を改良したもので、当時としては最新のものでした。もともとPS11はモハ40系などの電車用として開発されたものでしたが、ED42形はこれを装備していたのです。
通常、電機には架線追従性能が高く離線を抑えた空気上昇式のパンタグラフが使われます。これは、高速で走行する際、振動などでパンタグラフの集電舟がトロリ線から離れてしまいますが、電車であれば編成中に何両もの集電装置を備えた電動車があり、1両が離線してしまっても他の車両でカバーできます。しかし、電機の場合は編成中に1両しかないため、離線によって電源の供給が絶たれると、走行への影響が大きくなります。そこで、離線を抑えるために空気圧によってパンタグラフの押上力を強くした、電機用のものが使われるのです。
そのバーターとして、電機が多く走行する線区では、トロリ線が受けるパンタグラフの力が強くなるため、その摩耗が電車に比べて激しくなります。実際、機関区などの電機が多く行き交う駅や区所の構内では、トロリ線の摩耗による交換頻度は電車に比べて高く、筆者も何度かその交換工事に立ち会った経験がありますが、やはりその頻度には驚かされたものでした。
アプト式時代の碓氷峠区間では、横川駅と軽井沢駅構内では架空電車線方式による電化だったので、屋根上に設置されたパンタグラフから電流を取り入れていたが、アプト区間では第三軌条方式を採用した。これは、蒸気機関車時代の線路をそのまま使い、数多くあるトンネルはこれに合わせたサイズだったため、電車線を設置することができなかったことから、止むなく第三軌条方式を採用したといえる。国鉄の鉄道線で第三軌条方式を採用したのは、碓氷峠区間だけだった。写真はED42形の車端部に設置された集電靴で、この銀色に塗られた金属プレート部分の下面が、直流600Vが流された第三軌条の上面を擦ることで電流を取り入れることができる。(ED42 1〔横〕の終電靴 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)
この電機用としては性能が不足するであろう、電車用であるPS11AがED42形に装備された理由は、そもそも粘着式運転をする横川駅や軽井沢駅、横川機関区の構内でしかも低速で走行することに限られ、架空電車線方式もこれらの場所でのみであったことから、電車用のPS11Aで十分だと考えられたのです。
《次回へつづく》
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