ED42形は、1933年から28両が1948年まで第二次世界大戦を通じて製造されました。戦前製の車両は溶接組み立てを多用したことで、車体は凹凸の少ない近代的な外観でした。前面や側面の窓は、角にRがつけられるなど美観にも配慮したつくりで、当時の車両製造技術が向上していたことが窺えます。しかし、1938年に日中戦争が勃発すると、鉄道省といえども車両製造に関して、条件が厳しくなっていきました。戦時中となったことで、鉄鋼などは軍需に優先的に割り当てるため、使用量の削減や代用材を使った戦時設計へと変わっていきます。戦時設計で有名なEF13形は、貴重な金属資源を極力使わない方針で設計されたため、国鉄電機としては珍しい凸型の車体を持ち、高速度遮断器をヒューズで代用するなど、安全性よりもいかにして資材を削減するかを重点に置かれました。
車体側面に取り付けられているED42 1の銘板。昭和9年(1934年)に日立製作所で製造され、その製造番号が501番目であることがわかる。落成してから既に90年という長い年月が経っているが、庫内で保管されているだけあって状態はとてもよい。(ED42 1〔横〕 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)
戦時中も継続製造となったED42形は、EF13形ほど制約を受けなったとはいえ、やはり戦時中ということもあって車体などの一部は製造の工数をさらに減らすために、前面や側面の窓は角のRをなくして無骨さを増し、前面の乗務員出入扉は鋼製から木製へと代えられるなどといった代用資材が多用されるようになります。戦前製の車両は外板厚さも制限がなかったためか、歪のない美しい仕上がりでしたが、戦時中に製造された車両は資材の使用を制限されたために外板の厚さが薄くされたことや工数を削減されたために、表面は歪の多い粗末な仕上がりになるなど、戦時設計そのものでした。
それでもED42形の製造が続けられたのは、信越本線の隘路である碓氷峠区間を越えるための特殊な車両であったことや、戦争継続に必要な軍需物資の輸送が船舶から鉄道に移され、鉄道貨物の輸送量が逼迫していたことなどが理由として考えられ、結果的に戦時中を通じて戦後間もない頃まで増備が続けられたのでした。
最終号機となる28号機は、第二次世界大戦が終わって3年後の1948年に竣工しています。そして、28両全機が出揃うと、長らく碓氷峠を越える列車のお供として活躍してきたEC40形やED40形、ED41形はすべてその役目を終えて去っていき、すべての補機運用はED42形に統一されました。
碓氷峠のシェルパとして、国産の量産機であるED42形が活躍しますが、ラック式鉄道であるが故に、列車重量の制限は厳しく、また運転速度の向上も望めないことには変わりませんでした。しかも、高度経済成長期に入ると国鉄の輸送量は増加の一途をたどり、そのことは信越本線も例外ではありませんでした。そのため、難所でもある碓氷峠区間も、さらなる輸送力の強化が求められるようになり、いよいよラック式鉄道では対応できなくなりつつあったのです。
そして、ラックレールの摩耗による交換のコストもかかることから、そうした特殊な設備を必要としない粘着式による峠越えが模索されるようになり、管轄する高崎鉄道管理局は、碓氷峠区間の輸送力強化に関するレポートである「碓氷白書」を国鉄本社に提出、そこにはいくつかの案が示されていたのでした。
1.最大勾配25パーミル程度の新線を建設して粘着式による運転
2.最大勾配66.7パーミルの現在線を単線から複線に増設して粘着式による運転
3.最大勾配25パーミル程度の長大トンネルによる新線建設で粘着式による運転
4.最大勾配50パーミル程度の新線を建設して粘着式による運転
5.最大勾配35パーミル程度の新線を建設して粘着式による運転
6.現在線を改修してアプト式による運転
「碓氷白書」で示された案のうち、6は改修したとはいえアプト式のままであることから、運転速度を引き上げることが難しく、特殊な装備の車両を用意しなければならないなど不利な面が多いことから除外されたと考えられます。3の長大トンネルも、勾配こそ抑えられていますが、碓氷峠の地質は浅間山などが噴火して流れ出た溶岩が固まってできた硬いものなので、校時をするとなると相当の困難と費用がかかるので、これも除かれたといえます。
車両中央部床下に設置された、ラック用の主電動機とピニオンギア。たった1基の主電動機でピニオン2個を回転させ、しかも急勾配を重量のある列車を押し上げなければならなかったので、その負担は非常に大きかったと想像できる。(ED42 1〔横〕 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)
4は勾配が50パーミルときついため、66.7パーミルの現線とさほどかわらないので、わざわざ新線を建設理由にならないこと、5も4と同様に35パーミルは50パーミルほどでないにせよ、やはり勾配が厳しくなることから、巨額の費用を投じてもあまり変わりなく、結果、1の25パーミルの粘着式新線と2の現用の線路を増線した上で粘着式運転に切り替える案に絞られました。
そして、この2つを検討した結果、2の現用の線路を増線して粘着式運転に切り替えることに決定したのでした。これは、新線を建設した場合、工期や工事費用がかかることや、所要時間も距離が長くなることからそれなりにかかるなど、2よりも不利になったと考えられます。また、機関車の開発に関わる技術の進歩により、66.7パーミルの急勾配を粘着式でも登降坂が可能という見通しがもてたことも、これに決定した要因だといえます。
1961年から粘着式運転に対応した現用の線路に沿って増線の線路工事が始められ、1963年に竣工すると、碓氷峠越えの任を新たに開発された本務機用のEF62形と、補機専用のEF63形に託してED42形は全車一斉に用途廃止となり、長い車両で30年、最も短い1948年に竣工した車両はその半分の15年で生涯を閉じたのでした・
この間、特に第二次世界大戦後は優等列車に使われる車両の進歩もめざましく、非電化区間に乗り入れる急行列車の一部は気動車化されました。キハ58系を基本にアプト区間乗り入れ用の特殊仕様となったキハ57系は、急行形気動車としては異例の空気ばね台車を装着していました。この台車は、キハ58系のDT22系では、ブレーキ装置の一部がラックレールに干渉することや、ED42形に連結されて登降坂するときに座屈などの恐れがあったため、台車の空気ばねをパンク、つまり空気を抜いた状態で車体を安定させることにしたのでした。
また、特急形気動車であるキハ82系も、ED42形に伴われて碓氷峠区間を通過していきました。特急「白鳥」がそれで、キハ82系がここを走行するときには、横川方にED42形が4重連で登坂することもありましたが、軽井沢方に1両、横川方に3両という編成を組んでいる写真も残っていることから、いずれにしても4両のED42形に伴われていたのでした。
無骨なスタイルのED42形も、こうした花形の列車にとって欠かせない存在であったことは間違いなく、1963年に粘着式運転に切り替わるまで、峠のシェルパとして活躍したのでした。
旧横川運転所に開設された碓氷峠鉄道文化むらで保存されているED42形1号機を正面から捉えた写真。車体は飾り気がなく、製作時の工数を抑えていることが窺える。旧形電機は、機関士や機関助士が乗り込むときには前面に設けられた扉から出入りすることが原則であり、前従輪の上にはデッキが設けられていたため、乗り降りも容易だった。しかしED42形は前従輪がなく、デッキも設けられなかったため、代わりに細いステップが設置されていた。また、前面の扉も内側ではなく外側へ開く開き戸だったため、機関士たちは一度このステップの上を中央部まで行き、そこで扉を開閉していたので苦労が伴っていたと想像できる。他方、ED42形は旧形電機の構造をもっていたので、主電動機からの動力は台車枠を通して直接連結器に伝えていた。そのことを示すように、連結器とその周囲は台車枠につながっていることが、正面から見ると分かるだろう。車体はただ単に、室内機器を保護するための役割しかないため、台車枠の上に「乗っている」状態だった。(ED42 1〔横〕 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)
《次回へつづく》
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