《前回からのつづき》
東海道本線・山陽本線でのEF62形の活躍は、3年ほどで幕を下ろすことになります。1986年に実施された国鉄最後のダイヤ改正で、荷物列車そのものが全廃になってしまったのでした。これによって、下関配置のEF62形はすべての運用を失い、翌1987年の国鉄分割民営化までに廃車され、JR西日本に継承されることはありませんでした。
一方、信越本線に残ったEF62形は、運用こそ減ったものの本来の山岳区間用としての能力を発揮しながら、夜行急行列車「妙高」をはじめとする運用を細々ながら続けていました。しかし、こちらも分割民営化を控えて環境が激変していき、1985年のダイヤ改正では荷物列車の廃止と「妙高」の電車化、加えて残っていた貨物列車運用がさらに削減されるなど、もはや風前の灯火といっても過言ではない状況にまでに追い詰められたのでした。
こうして高崎第二区と篠ノ井区に残ったEF62形も余剰が出て多くが廃車となっていき、頼みの綱であった中央本線・篠ノ井線の運用も貨物列車削減によって、EF64形の運用にも余裕が出てきたこともあって、分割民営化後を見据えた配置転換で田端運転所に配置転換になった第二次量産車6両を除いて、すべて廃車の運命を辿っていきました。
1987年の国鉄分割民営化によって、新会社に継承されたEF62形6両は、JR東日本田端運転所に配置され、唯一残っていた夜行急行列車「能登」の運用と、碓氷峠区間を通過する団体臨時列車などの波動輸送用、そして信越本線の黒井駅-二本松駅間の貨物列車運用に充てられました。特に貨物列車運用は、この時点でEF62形が牽く唯一の貨物列車だったと考えられます。
しかし、1993年のダイヤ改正で、急行「能登」が客車から489系による電車化が実施され、定期の客車列車の運用を失いました。それと同時に、最後まで残った貨物列車も消滅したため、すべての定期運用を失い、あとは波動輸送用としての役割のみになり、EF62形の命運はこの時点で決したといっても過言ではないほどになったのです。

1987年の国鉄分割民営化後も残ったEF62形は、国鉄時代と同じく碓氷峠を越える客車列車に使われた。とはいえ、その数は国鉄時代と比べると大幅に減り、活躍の機会もそれに比例していった。特に、1985年のダイヤ改正で14系客車で運転されていた急行「妙高」が169系電車に替えられると、定期の客車列車の運用がなくなり、客車で運転される臨時列車のみが残ることになった。残ったのは波動輸送と団体臨時列車のみになり、多くがジョイフルトレインを牽くことになった。最後まで残った定期運用は、電車化される前の急行「能登」と、間合いで運用に充てられた貨物列車だった。(パブリックドメイン)
この間、北陸新幹線(当時は長野新幹線と呼称)の建設工事が進められ、この工事で敷設されるレール輸送に活躍しましたが、自らの存在意義を消滅させる新幹線建設の資材を輸送するという皮肉な運用にも用いられ、まさに最後の日々を過ごしたといえます。
1997年に北陸新幹線長野開業を迎えると、国鉄→JR最大の急勾配を抱えた碓氷峠区間が廃止になり、EF62形はほぼすべての用途を失いました。その後、長年苦楽をともにしたEF63形が全車廃車になると、その廃車回送の任を担い、同僚を死地に送り込むための運用に充てられました。また、上越線で運行されるイベント列車を牽く運用にも就きましたが、これも効率的な車両運用を目指して電車化されると、いよいよ用途を喪失してしまい、1998年から残存した4両も順次廃車となっていき、1999年に最後まで残った54号機が廃車となって、EF62形は形式消滅していきました。
碓氷峠を越える列車の先頭に立ち、補機となるEF63形と協調運転をするなど、数々の特殊装備をもった山岳線区用の性能をもったEF62形は、信越本線を走行する列車にとって頼もしい存在だったといえるでしょう。
2024年現在、その功績を称えるかのように、1号機と最後まで運用された最終生産機である54号機が、縁の地である旧横川運転区の跡地に開設された、碓氷峠鉄道文化むらに静態保存され、かつての勇姿を今に伝えています。
《次回へつづく》
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