旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄の置き土産〜新会社へ遺産として遺した最後の国鉄形〜 極限までコストを抑えつつローカル輸送に特化した改造近郊形電車 413系・717系電車【6】

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《前回からのつづき》

 JR九州が発足した後、継続して改造製作されたHk205編成以降は、僅かに仕様が変えられました。戸袋窓を廃止し、室内の座席もクロスシートを減少させてロングシートを多くしました。保守の簡略化と客室の収容人数を増加させることで、運用コストや検修工数を減らし、よりラッシュ時に対応できるように仕様を変えたのでした。

 そして、1988年に第7編成(Hk207)が落成してからおよそ7年後の1995年に、JR九州は717系の改造製作を再開しました。といっても、外観はまるで違うもので、改造費用を極限まで抑えるために、種車の車体をそのまま流用し、運転台を含めた前頭部を廃車車両からの発生品でつなぎ合わせた、一歩間違えると「魔改造」になるようなものでした。

 鹿児島車両所で1995年に落成した900番台は、200番台とは異なり457系の中間電動車を先頭車化、近郊形化改造して製作されました。車体のほとんどは種車であるモハ456・457形のものを流用し、車体中央部に幅1000mm片開きの乗降用扉を追加、クモハ716形は種車のトイレ・洗面所部分を撤去し、代わりに廃車となったクハ455−601の前頭部と運転台を接合して、先頭車化したのでした。

 この900番台の追加改造は、すでに運用されていた717系200番台7編成では、所要数がギリギリだったためでした。ラッシュ時における混雑に対応した構造にしたとはいえ、2両編成の200番台では混雑時に乗降に時間がかかり、列車の遅延が問題になっていたのでした。そこで、追加改造によって所要数を確保し、遅延を改善させる必要があったのです。

 717系200番台は、当初は大分電車区と鹿児島車両所に配置され、日豊本線の杵築以南を中心に運用されました。2003年には大分区配置の車両が配転となり、これ以後は鹿児島所に集中配置になりました。

 2009年になると、運用範囲は佐伯以南、さらには大分以南に縮小され、佐伯ー延岡間の普通列車が電車からキハ220形気動車に置き換えられると、200番台の運用は延岡以南に限定されるようになります。

 また、鹿児島本線での運用も、川内ー鹿児島間に短縮されることになり、200番台に余剰車が発生するようになります。その結果、Hk206とHk901の2編成が余剰となり定期運用を離脱、その年の12月には廃車となり、小倉工場で解体されてしまいました。

 その後、残った5編成で鹿児島地区の営業運転に充てられましたが、続々と登場する新型車両の前に、200番台も安泰とはいきませんでした。2012年にはHk203とHk204の2編成を除いた4編成が運用を離脱し、運用区間鹿児島本線国分ー鹿児島中央にまで短縮されました。そして、運用離脱した4編成は2013年に廃車され、残った2編成もすべての運用から退いていきました。そして翌2014年になると、最後まで残った国鉄時代に製作されたHk203とHk204編成も小倉工場へ回送され、その年の秋口に車籍を抹消し廃車となり、ついに717系は系列消滅となったのでした。

長らく北陸本線の地域輸送を担ってきた413系も、種車の製造から半世紀近くにわたって運用が続けられ、その間に取り巻く社会状況も大きく変化していった。JR西日本は、その後継として223系をベースに設計した521系を増備して投入、北陸本線の新たな主役となった。もっとも、北陸新幹線の延伸によって北陸本線は新た設立された三セク外車へ移管し、その際にJR西日本がが製作した521系も、これらの事業者へ譲渡されていった。(クモハ520-33〔金サワ〕 福井駅 2013年7月30日 筆者撮影)

 

 累積した「天文学的」ともいわれた巨額の債務、あまりにも伝統を重んじすぎたダイヤ編成、そしてそこで働く国鉄職員の崩壊したモラルとサービスの低下など、様々な要因が積み重なり、国民の「国鉄離れ」を招き、結果的に分割民営化に追い込まれた国鉄も、最後は何とかして利用客を呼び戻し増収につなげようと最後の努力をしました。

 その一つが、地方都市圏における列車の、特に普通列車のパターンダイヤ化とフリークエンシーサービスでした。毎時間、決まった間隔で同じ時刻で列車がやってくるダイヤ編成は、国鉄の常識を変えるとともに国鉄から離れていった利用客を一定程度呼び戻すことに成功しました。

 その高頻度運転のダイヤを実現させるために、それまで長大編成を組んでいた車両を組み換え、短編成化することで所要本数を確保しましたが、それでも先頭車が足りない分は改造によって確保しました。

 その一方で、交流区間ではそれに適した車両がなく、余剰となった急行形電車を近郊形化改造して使い続けますが、ラッシュ時の混雑に対応できないなど難があり、根本的な解決が求められました。

 

「末期色」と揶揄された青一色を身にまとった413系。塗装工程の簡略化と、使う塗料を限定することによって運用コストの縮減をねらったJR西日本は、地域ごとに異なる色を使った一色塗装を展開した。山陽線の黄色、京阪神の深緑、紀勢線のスカイブルーに並んで、北陸線は青色、そして七尾線は臙脂色となった。後継となる521系の増備や、北陸新幹線の延伸開業により、並行在来線となった北陸本線の一部区間は、新たに設立された三セク鉄道へ移管されたことなどによって、その役目を終えていった。(©Toshinori baba, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 

 そうした中で、国鉄は厳しい財政事情の中であるにも関わらず、交流区間にある地方都市圏の輸送を担い、新会社の初期費用の負担を可能な限り軽減しようと、余剰車を改造する形で製作された2扉の近郊形電車は、地域の重要な輸送機関として役割を果たしてきたといえるでしょう。同時に、国鉄から継承したJR各社にとっても、当初は貴重な戦力としてローカル輸送を支え、その後に製作される車両に大きな影響を与えたといえるでしょう。

 可能な限り機器や部材を再利用し、製作コストを削減しながら、これらの車両を実現させたことも特筆に値します。旧来の国鉄の発送であれば、必要ならば借金をしてでも車両を新製するという発想はすでにこの時点では通用せず、とはいえ、手をこまねいて見ているわけにもいかず、「使えるものは可能な限り使う」というそれまでになかった考え方に転換し、時すでに遅しとはいえ国鉄自身にコスト意識を醸成したことも、民営化後の新会社に継承できたともいえるのです。

 種車の製造からすでに60年以上が経っている2025年現在でも、413系がいまだ現役で走り続けている事自体が驚きに値しますが、大規模な改造を受けても車両自体が劣化しないのは、やはり国鉄形車両の設計が頑強であることが成せる業だともいえます。

 いずれにしても、運転と財政の両面で大きな貢献をしたことは、413・717系の大きな功績だったといえます。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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