旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

赤い尾灯を灯して貨物列車の殿を受け持った車掌車たち【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 現代の貨物列車は、多くの方がご存知のように最後尾に連結された貨車には、これを示すための後部標識板と呼ばれる反射材を使った大きな円盤が、左右1個ずつ取り付けられています。これはあくまでも原則で、豪雪地帯、特に北海道内を運行する列車には、走行中に捲き上げられた雪によって標識板が見えなくなることを防ぐために、バッテリーで駆動する可搬式の後部標識灯が取り付けられます。

 いずれもどの車両が最後尾に連結されるかは、実際に編成を組んでみないとわからないので、組成作業が終わった段階で駅の輸送係がこれらを取り付け、終着駅に到着したらこれを取り外すという運用がされています。

 取り付けと取り外しという多少の手間はかかるものの、現在では当たり前になっている後部標識板(可搬式後部標識灯)を貨物列車の最後尾に設置するのは、今から40年前に始まったことでした。

 1984年2月1日に行われた国鉄ダイヤ改正は、日本の鉄道貨物輸送にとって改革の嵐が吹き荒れたといっても過言ではないほど、大きな変化をもたらしました。いわゆる「ゴー・キュウ・ニ改正」と呼ばれるこのダイヤ改正では、鉄道開業以来、連綿と続けられてきた貨車1両単位で貨物を輸送する車扱輸送を原則として廃止し、広大な用地と多くの職員を擁した操車場を全廃したものでした。輸送時間も多くかかり、多くの職員を必要とし、輸送コストも大きいヤード継走輸送は、ただでさえ貨物輸送が凋落した中で、国鉄の赤字を生み続ける存在でしかなかったと言えるでしょう。多くの荷主は、自らの都合に合わせて貨物を輸送することができるトラックへと移ってしまい、もはや旧来の輸送方法では太刀打ちができなかったのです。

 こうした貨物輸送を取り巻く厳しい中、国鉄は貨物列車の大規模な削減と、貨物取扱駅の集約と削減、そして車扱輸送からコンテナ輸送への以降を進め、操車場を廃止してヤード継走輸送から発駅から着駅まで貨物列車を直行させる拠点間輸送へと大きく舵を切り、貨物輸送の大規模合理化を断行したのでした。

 筆者が小学生の頃から眺めていた新鶴見操車場も、このダイヤ改正によってすべての役割を終えてしまいました。前日までは多くの貨車が集まってきて、ハンプと呼ばれる人口の丘にDE11形によって押し上げられ、ここで行き先別に解放、突放によって貨車が坂道をノロノロと降りてくる。そして、待機していた職員が貨車に飛び乗って、ブレーキを掛けて連結していく仕分け作業も、この日からはプッツリと途絶えてしまいました。

 その後は、余剰車となって廃車手続きがとられ、車籍を失って貨車や客車、そして機関車たちは、解体の日までここに留め置かれていました。動くこともなく、二度と営業列車に用いられることもなくなり、その運命を決された車両たちが居並ぶその姿は、まるで墓場のようでもあり、解体され永遠にこの世から姿を消す死者の列を成しているようにも見えたものです。

 こうしたことは、車両だけに留まりませんでした。

 多くの職員を擁した操車場が機能を停止したことは、そこで働く人々もいなくなることを意味していました。操車場の周りには、職員のために数多くの官舎が建てられていました。一日働いて勤務が明けた職員は、各々が住む官舎や寮に帰っていき、ある者は家族と一緒に過ごしたり、あるものは寮の一室で気ままに過ごしたりするなど、そこで働く人たちの生活も操車場の周りにはあったのです。いわゆる「鉄道の町」と呼ばれた街は、これ以後、急速にその姿を変えていったのでした。

 新鶴見操車場の周りにも、数多くの官舎が建てられていました。筆者が記憶する限り、北加瀬、南加瀬、鹿島田、江ヶ崎、矢向の5か所の官舎と、小倉(おぐら)に寮が建てられていました。そして、小学校時代にはクラスには必ず1〜5人程度、国鉄職員の子どもがいて、仲の良い友だちとはよく遊び、度々官舎にもお邪魔したものです。

 

近くに住んでいながら、鶴操の写真は撮っていなかったのが今になって悔やまれる。写真はかなり古い時代のもので、品川方から鶴見方を望んだもの。カーリターダの先には幾重にも分かれた仕訳線があり、左手には新鶴見貨車区の検修庫建屋が見える。日本の三大操車場の一つに数えられ、その取扱量は最大級であった。それ故に、ここに勤務する操車掛の勤務は過酷であり、多くの負傷者や殉職者も出していたことから「鬼の鶴操、地獄のハンプ」と言われたとされる。(パブリックドメイン

 

 そうした彼、彼女らも、1987年の国鉄分割民営化によってそのまま残った人もいれば、会社が違うという理由で別の官舎に移っていった人、大規模の配置転換に応じて引っ越していった人もいました。そして、多くの人が生活していた官舎も急速に住民がいなくなり、鉄道の町は徐々に崩れていったのです。

 話がそれてしまいましたが、操車場を全廃したことで、貨物輸送そのものが大きく変化しました。国鉄は貨物輸送をコンテナ、物資別適合輸送、そして一般車扱の3つに分類し、コンテナと物資別適合輸送は発駅から着駅まで基本的に入換作業や仕分作業をしない拠点間輸送として輸送時間の短縮を目指しました。そして、一般車扱は貨車1両単位で貨物を引き受け輸送するものの、従来のように操車場に取り込まれて仕分作業を何度も繰り返すのではなく、発送時にどの列車に連結して輸送するのかを指定し、一部の操車場は輸送基地として残され、ここで指定された列車に貨車を連結して着駅に向かう方法が採られました。この輸送方法を変えたことにより、それまでローカル線にも設定されていた貨物取扱駅が廃止され、全国で851駅あったのが457駅と半分近くまで削減され、全国で2,444本も運転されていた貨物列車は、車扱直行列車が154本、集配列車154本と大幅な削減が行われたのでした。

 

1985年のダイヤ改正で、緩急車の連結義務はなくなり多くの車両が姿を消していった中で、ある程度の数は民営化後の貨物会社に継承された。とはいっても、車掌が乗務することはなく、甲種輸送や特大貨物といった特殊な輸送における係員が添乗するための控車として使われたが、その貨物自体も減少していき車掌車も徐々に数を減らしている。(©User:kazsaun, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

《次回へつづく》

 

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