《前回からのつづき》
■戦後生まれのヨ2500形 車掌車とは名ばかりの急造車両
第二次世界大戦中、国鉄は増大する軍需輸送を支えるために多くの貨物列車を運行し、その輸送力を増強するために代用材を使った車両を数多く製造しました。多くの車両や線路が酷使されながらも、戦争中は持ちこたえて軍事面だけでなく、国民の生活をも支えました。
しかし、1945年8月15日に連合国軍に降伏して終戦すると、鉄道は多かれ少なかれ疲弊した状態にありました。それでも、国鉄をはじめとした鉄道事業者は、戦災を免れたり損耗をしながらも運用に耐えたりしていた車両をやりくりして、戦後の増大した旅客輸送を支えていました。
終戦から1年が経っていない1946年5月8日、東海道本線国府津駅で、停車中の貨物列車に後続の臨時旅客列車が追突し、貨物列車の最後尾に連結されていた車両に乗務していた車掌が死亡し、追突した電気機関車の機関士そして旅客列車の乗客あわせて6名が負傷する事故を起こしました。
事故の原因は、後続列車の機関士が居眠りをしたため場内信号機の停止現示を見落とし、機関助士も同じく居眠りをしたため、信号機の現示に気づくことができなかった、というものでした。
この事故を重く見たのは、当の国鉄はもちろんだと思いますが、当時、日本を占領下に置いて統治していた連合国軍総司令部、いわゆるGHQだったのです。戦後直後の混乱期であったとはいえ、重大事故が相次いで起きていることから、GHQはアメリカでカブースと呼ばれる緩急車を連結することが義務付けられていたことを引き合いに、日本でも全列車の最後尾に緩急車を連結することを義務付けるように運転規程の改定を国鉄に命令しました。
それを受けた国鉄は、当然ですが抗いようはありません。戦後直後の日本は、GHQの統治下に置かれていたため、その命令は絶対のものでした。そのため、どのような理由があってもそれに従わなければならず、覆すためにはGHQが納得して命令を変更させるために、その理由や根拠を示さなければなりませんでした。しかし、よほどのことがない限り、命令を変更あるいは取りやめることなど叶うことはないので、国鉄はこの命令にしたがって運転取扱規程を改定する他なかったのです。
すべての列車に緩急車の連結を義務付けるように運転取扱規程が改訂されると、嫌でも何でも貨物列車の最後尾に緩急車を連結しなければなりません。ところが、車掌車や有蓋緩急車など、すべての緩急車を掻き集めても必要な数を揃えることは非常に難しかったのです。
それならば車掌車や有蓋緩急車を新製すればよいと考えられますが、当時は戦後直後であり、車両を新たに作るための物資を手に入れることが非常に難しい時代です。しかも、当時は国鉄をはじめとした鉄道事業者が自由に車両を新製することはできず、貨車1両を新製することですらGHQの許可が必要だったのです。
そこで、国鉄はすべての貨物列車に緩急車を連結させるために、明治時代につくられすでに老朽化が進んでいた10トン積木造有蓋車のワ1形を車掌車に改造するという、苦肉の策ともいえる急拵えの車両を登場させたのです。

戦後直後に造られたヨ2500形は、車掌車とは名ばかりで木造有蓋車のワ1形に必要最低限の窓と設備を取り付けた、粗末なものだった。これは、GHQが最後尾には緩急車の連結を義務づける命令を発したためで、当時は戦後直後の混乱期であり、資材も少なくとても新車を造る余裕などなかった。余剰となっていた有蓋車を改造することで、必要な車掌車を確保するために登場したのがヨ2500形だった。次代の車掌車であるヨ3500形が増備されていくと、早々にヨ2500形は整理淘汰の対象になり、そのため資料となる写真も少なく、天賞堂から発売されていた模型製品の写真を引用した。(引用・出典元 天賞堂)
種車となったワ1形は、前述の通り明治時代の終わり頃、鉄道国有法によって買収された私鉄が保有していた6トン〜8トン積木造有蓋車を編入させ、それを10トン積に改造した車両でした。ワ1形が10トン積であるため、後につくられたワム級と比べて車両サイズも小さく、輸送効率も低くしかも老朽化も進んでいたため、遅かれ早かれ淘汰される対象であったことは間違いないでしょう。
そこへ、大量の緩急車の増備を迫られた国鉄は、このワ1形に目をつけたのでした。
ワ1形から車掌車への改造は、非常に簡素なものでした。車掌が出入りに使う乗務員用の側扉は、貨物積み込み用の扉を固定し、そこに開口部を小さくして採光用の窓を設けた開き戸でした。
片側の妻面には後方監視用の窓と、側面にも片側1か所ずつの窓が設けられましたが、いずれも申し訳程度の大きさしかありませんでした。資材が極端に不足している中であったことや、後継車両が増備されると優先的に廃車の対象になることがわかっていたため、可能な限りガラスを使わないように配慮した結果であったといえるでしょう。こうした簡易な改造による構造だったため、車内はヨ2000形と比べて粗末で薄暗いものだったと想像できます。
最後尾に連結される車掌車であることから、後部標識灯は欠かすことのできない装備です。ヨ2500形は車体に固定した後部標識灯はなく、代わりに可搬式のものを引っ掛けるフックが設置されていました。
車体は種車のものをそのまま使ったため、車体外板はすべて木製でした。木造有蓋車は骨組みとなる鋼棒と鋼棒の間に木板を落とし込み、それを重ねていくものだったため、車内は内張りがされているとはいえ、側扉と同様に隙間風が入り込みやすかったといえます。
加えて、改造内容を最小限としたため、走り装置には一切手を付けることはなく、種車が装着していたシュー式のままで、しかも出自が重量物を載せる有蓋車であったため、重ね板ばねは貨物用の硬いものがそのまま使われました。
こうした簡素な車体構造であったため、乗務する車掌の執務環境は決してよいとはいえず、硬い板ばねのおかげで乗り心地は悪く、特に冬は暖房もなかったことから凍えながら寒さに耐えなければならない過酷なものだったといえます。そのため、「寒泣車」と揶揄されたのも頷けるものでした。
こうした木造有蓋車を簡易に改造したヨ2500形は、1947年に一挙に700両が改造に製作され、全国に配置されて貨物列車の最後尾に連結されました。その後、二度目の改造工事が行われましたが、扉などの小改良程度で終わり、劇的に改善されることはなかったのです。
国鉄も、この簡易で急拵え、ただでさえ老朽化が激しいヨ2500形を長々と使うつもりはありませんでした。あくまでも、運転取扱規程を改定したことによる車掌車不足を凌ぐためのもので、新型車両が増備されれば真っ先に淘汰する計画でした。1950年に戦後初の本格的な車掌車であるヨ3500形が製造・配置されると淘汰されていき、1955年にワフ29500形の増備はヨ2500形の運命を決定づけました。そして、1959年までに全車が廃車・除籍とされ、終戦直後の貨物輸送を支える役割を終えて、木造有蓋車の姿をしたヨ2500形は姿を消していきました。
《次回へつづく》
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