旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

赤い尾灯を灯して貨物列車の殿を受け持った車掌車たち【9】

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《前回からのつづき》

 

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・ヨン・サン・トオ改正と貨物列車の高速化

 1968年10月のダイヤ改正、いわゆる「ヨン・サン・トオ改正」では、特急列車網の充実と輸送力の増強、そして到達時間の短縮といった速達性の向上に伴う列車の運行速度を引き上げるなどの施策を実施します。旅客列車の運転速度を上げるためには、その合間を縫って走る貨物列車の運転速度も引き上げなければなりませんでした。そして、何より貨物輸送の速達性を高めることで、輸送時間の短縮といったサービスの向上も期待できます。

 国鉄は、それまで65km/hだった貨物列車の運転速度を10km/h引き上げ、75km/hでの運転をすることにしました。そして、多くの二軸貨車に使われていた一段リンク式の走り装置を二段リンク式に変更し、高速で走行しても蛇行動を抑えて安全に輸送をすることができるようにしたのです。

・二段リンク式への改造とヨ5000形への編入

 ヨ3500形は75km/hに対応はしていたものの、一段リンク式であったため、他の二軸貨車と同様に二段リンク式に改造を受けることになります。こうして、1967年からヨ3500形は再び二段リンク式への改造を施工することになり、1959年に改造された初期改造車と同じく形式をヨ5000形に改めることになります。

 この後期改造車は改造内容こそ初期改造車とほぼ同じでしたが、1959年の改造車両は改形式の際に5000号車から順に番号が振られたのに対し、後期改造車は現番号に10000をたしたうえでヨ5000形に編入されました、つまり、例えばヨ3709が二段リンク式の改造を施された場合に、原形式番号に10000をたしたのでヨ13709と改番された上で、形式をヨ5000形に編入したのです。

 後期改造車の13500番台は、実際に何両が改造編入されたかがわかっていません。ヨ3500形のまま改造を受けることがなかった車両もあったり、そもそもそうした資料が残っていないものと考えられます。ただ、種車となったヨ3500形が1968年の時点で未改造車が294両残っていたことから、全車両の製造数である1345両のうち1051両が改造されたと考えられ、ヨ5000形は単純計算で1151両あったと推測されます。*1

・居住性の高さと乗務員からの評価

 このように、大量に製作されたヨ5000形は、これ以後も貨物列車の最後尾に連結され、全国津々浦々で活躍しました。特にヨ5000形の居住性のよさは乗務する車掌や列車掛からは好評だったようで、もともとが柔らかい設定となっていた担いばねに加えて、二段リンク式になったことで軸箱支持装置が動きやくくなったこと、そして車掌車としては車長が長く広い車内であり、車軸間の距離も長く蛇行動もすくなく、休憩用のロングシートも長いことなど、後年に製造されたヨ6000形やヨ8000形よりもヨ5000形を好む傾向があったといいます。

 このように、多くの貨物列車の殿を務め、乗務員からも好評だったヨ5000形にも、改造車が存在しました。

 

かつて北九州には多くの炭鉱があり、産出した石炭を鉄道で輸送していた。多くは石炭車が用いられ、積み込みは炭鉱にある専用線の荷役設備を使っていたが、この高さは石炭車に合わせたものであり、車掌車を連結したままでは通過できなかった。そこで、ヨ5000形を連結したまま積み込みができるように、屋根を低くした5800番台が改造によって製作された。両者を並べると一目瞭然で、深い蒲鉾形の屋根を途中でスッパリと切り取ったような外観になった。(©Olegushka, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

・石炭輸送用に改造された5800番台

 北九州地区には多くの炭鉱が存在し、そこで算出される石炭は鉄道を使って輸送されていました。そして、この石炭を運ぶために石炭車が使われていましたが、その緩急車としてセフ1形がありました。しかし、セフ1形は1954年から1959年にかけて改造によって製作された車両であり、その種車は戦前に製造されたセムフ1000形やセム6000形であり、1970年代に入る頃には車齢も高く老朽化が激しくなっていました。

 通常であれば、老朽置き換え用として新たな緩急車が製作されるところですが、この頃には国内の石炭生産は減少の一途を辿り、国のエネルギー政策が石炭から石油に変わっていくとともに、国内の炭鉱は徐々に閉山されつつありました。そうした中で、新たな石炭車の緩急車を製作するのは得策ではないと考えられたためでしょう、セフ1形の代替は車掌車を改造して賄うことにしたのでした。

 こうした経緯から、石炭積み込み用のホッパーの高さに合わせるため、ヨ5000形の中化で29両がこれに対応した改造を施すことになり、5800番台に区分されたのでした。5800番台は石炭車の最後尾に連結したまま、石炭積み込み用ホッパーを支障なく通過できるように、屋根の高さを台枠上高さで2192mmに詰めるなどといった「低屋根」化されたことで、同じ形式ながらも印象が大きく異なる車両でした。

・低屋根化の影響と運用の変化

 5800番台は北九州地区の石炭列車に連結されて、その殿を務めました。連結したまま採炭所のホッパーを潜り抜けるなど、その形を活かした活躍をしました。しかし、屋根を低くしたことによって、車内の天井も低くなった分、居住性が僅かに悪くなったほか、特に夏季は強い日差しを受けるため、鋼板でつくられていたことや天井が低くなったことで、車内は熱がこもりやすく一般型に比べて室温が上がりやすかったのではないかと想像できるでしょう。

 北九州地区の炭鉱が衰退とともに閉山していくと、石炭列車も次々に廃止されていきました。それとともに5800番台は限定運用を解かれると、他の車掌車と同様の運用になり、全国を走り回る貨物列車に連結される姿を見られるようになりました。意外なことに、この特殊仕様である5800番台は、一部が分割民営化後も残っていたようで、最後に廃車になったのは1989年のことだったのです。

・緩急車廃止とヨ5000形の終焉

 このように、乗務する車掌や列車掛から好評で、多くの貨物列車に連結されて活躍したヨ5000形でしたが、1986年のダイヤ改正で貨物列車の緩急車連結が廃止されると、そのほとんどが仕事を失い余剰車と化しました。そして、5両を残してすべて廃車となり、機能を停止した操車場などに送り込まれ、解体されて世を去っていく車両たちの列に並んでいきました。

 また、その車内の広さが買われ、足回りを撤去されたヨ5000形は、無人駅の簡易駅舎に転用されたものもありました。また、そのまま解体して鉄くずにするのではなく、民間に安価で販売したことで、倉庫や休憩所、事務所などとして再利用されたものもありました。

 

《次回へつづく》

 

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*1:

この数字はあくまでも推測であり、確実な数ではない。ヨ3500形の全製造両数から、改造・改形式されることなく残存した両数を引き、その数にヨ5000形の新規製造両数である100をたして算出した。実際には事故や極端に状態が悪いなどの理由で廃車となった車両もあると考えることができ、これよりも少なかった事も考えられる