《前回からのつづき》
・老朽車両の置き換えと新設計の誕生
ヨ8000形は全長6,400mmの台枠の上に3,250mmの車掌ユニットを載せ、それをボルトで締結する構造とされました。従来の箱型車体の車両に比べて製造工数を大幅に削減しています。これは、ヨ6000形と比べても小ぶりなものですが、軸距は同じ3,900mmを確保して、高速走行時の安定性に配慮した設計でした。
走り装置は二軸貨車として一般的な二段リンク式で、担いばねは柔らかいものを装着することで、85km/hでの走行を可能にするとともに、乗務する車掌の乗り心地にも配慮されていました。
実際、筆者も配給列車に連結された、このヨ8000型に乗務した経験がありますが、空気ばね式のボギー台車を装着した電車や客車などに遠く及ばないまでも、コイルばね式の台車を装着した(特に国鉄のDT21系)とほぼ同等かそれよりも若干硬めであり、一自由度系台車であるパイオニアⅢ(東急車輛製のTS-702など)よりも柔らかく、思ったよりは悪くない乗り心地だったと記憶しています。ただ、軌道のバラスト(砕石)の突固めが甘いところではバウンドするような状態になり、多少飛び跳ねるような揺れはありましたが、柔らかい担いばねがそれをなんとか吸収しようとしていたという印象でした。
・快適性と製造効率を両立した構造
これまで製造された車掌車と同様に、車掌はデッキから室内に出入りするため、車掌ユニットの両端中央には出入口となる扉が設置されていました。この扉は引き戸でしたが、鋼板を薄くしたため旧型国電のようなプレス型が入れられ、扉の強度をもたせていました。そして、扉の両側には後方監視などができるように窓も設けられていました。
従来の車掌車のデッキには、車体から伸びた屋根があり、それを支えるための支柱が手すりから伸びる形で設置されていましたが、ヨ8000形では車掌ユニットから僅かに屋根が伸びただけであり、デッキ全体に屋根がかからない独特な構造でした。こうした構造のため、特に雨が降ったときには乗り降りする車掌にとって、少しではあるものの雨に濡れてしまう不便さがあったと考えられます。

ヨ8000形の車内は従来のヨ5000形よりは狭いものの、執務机と椅子は監視すべき後方を向くことができ、反対側には休憩にも使えるボックスシートを備えていた。そして、中央にあるものがストーブで、筆者も添乗で乗務したときに一度だけ使った、これがあるとないとでは大きな違いを感じた。右側にあるステンレス製の開き戸がトイレであり、車掌(列車掛)の乗務環境も改善したといえる。(©芹丘智美, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
車内は小ぶりユニットの大きさから、必要なものを凝縮するように設置されていました。車掌が事務処理などに使う執務机は2位側に設けられ、後方を向く形で1人分だけ設置されていました。その反対側には休憩にも使える座席がありましたが、これは2人分のボックスシートとなり、長時間停車の時などには少しでも寛ぐことができるように配慮されたものでした。そのボックスシートには小型のテーブルも設置され、客車に近い居住性を確保しています。
1位側には長距離・長時間の走行を想定して、レムフ10000形などと同じくトイレも設置されていました。車掌車としてトイレを設置したのは、木造古典客車を車掌車に転用したヨ1形以来で、新製された車掌車としては初めてのものでした。これにより、執務環境は大幅に改善されたといえますが、このトイレは走行中にしか使えない「垂れ流し式」で、停車中に使うことは禁じられていたようです。この点は、トイレを設置した当時の電車や客車などと同じで、走行中に用足しをすると線路上に「撒き散らす」ため、保線職員や電気関係の技術職員からは嫌われていたようです。
・全国展開と乗務員の評価
約8.5平方メートルという狭い空間に、これだけの設備を詰め込んでいましたが、冬季に欠かせない石油ストーブも車内の中央に設置されていました。そのため、非常に狭く感じるもので、ヨ5000形など従来の車掌車に慣れた乗務員にとっては狭苦しい車両だったかもしれません。筆者も初めてヨ8000形に乗り込んだときには、あまりに狭いことに驚かされたものです。とはいえ、夏季の乗務に配慮して扇風機も備え付けられていた点では、従来の車両よりも少しでも快適になるようにされていました。
従来の車掌車は、車内の内張りは木板張りでしたが、ヨ8000形は鋼製の車体だったことや、製造時の工数を減らすために電車などの旅客車と同様に薄緑色の化粧板をビスで止める方法が採られました。
このように、合理的な設計と構造、そして乗務する車掌に可能な限り配慮した設備をもったヨ8000形は、1974年から1979年までの5年間で1,170両が製造されました。中には北海道に配置された車両は、二重窓とするなど酷寒地仕様とされましたが、特に番台区分されることはありませんでした。

ヨ8000形が台枠上に車掌ユニットを載せて固定するという製造方法を採用したため、従来の車掌車にあったデッキ部の屋根が短くなっている。しかし、この製造方法によって、工数も大幅に減らすことができ、製造期間と費用を大幅に抑えることができ、大量に製造して老朽車両を置き換えていった。横から見ると、台枠と車掌ユニットが分かれていること見て取れる。(©kiwa dokokano, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
これら新たに製造されたヨ8000形は、ヨ5000形やヨ6000形の補充をはじめ、老朽化した車掌車や有蓋緩急車の置き換え、北海道や四国に封じ込められていた低速指定を受けた車両も置き換えていき、全国各地で貨物列車に連結されている姿を見ることができました。
・貨物輸送の衰退と職制の消滅
しかし、ヨ8000形が登場した1970年代は、既に国鉄の貨物輸送はトラックにシェアを奪われて衰退し、ダイヤ改正のたびに貨物列車の削減と合理化が進められていた時期でした。特に1978年のダイヤ改正ではそれが顕著に現れていき、最新の車掌車であるヨ8000形の先行きは明るいものではなかったのです。そして、1984年のダイヤ改正、いわゆる「ゴー・キュウ・ニ改正」では赤字を生み続ける貨物輸送に大鉈が振るわれ、ヤード継走輸送の全廃と車扱貨物の縮小、そして貨物取扱駅の統廃合とともに、拠点間輸送とコンテナ貨物への移行により貨物列車も大幅に削減され、多くの車掌車が余剰化しました。それはヨ8000形も例外ではなく、長くて10年、短い車両では新製から僅か5年ほどで職を追われる憂き目に遭うのでした。
それでも、貨物列車への緩急車連結は維持されたため、古いヨ5000形やヨ6000形が優先して廃車されていき、ヨ8000形はなんとか生き存えることができました。
しかしながら、国鉄の貨物輸送は大幅な合理化を進めたにもかかわらず、輸送量は減る一方で、収益を上げることが叶わず、さらなる合理化を必要としました。そして、国鉄の分割民営化が決まると、貨物輸送は専業となる貨物会社への移管が決まり、日本の鉄道貨物輸送は存続されることになりますが、新会社には必要最小限の車両と人員、そして施設のみが引き継がれことが決まり、停車時のブレーキ寛解試験や点検、異常時の対応程度の業務以外は、乗務中はほとんど乗っているだけであることから、列車掛という職制そのものが廃止されることになりました。
《次回へつづく》
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