《前回からのつづき》
・推進運転用ヨ8000形の誕生
1994年に小倉車両所で改造されたヨ8000形には、推進運転に必要な機材を装備させました。社内にある石油ストーブやその燃料タンク、床下の水タンクを撤去し、代わりにブレーキ弁装置や警笛、全部標識灯を設置しました。前部標識灯はデッキ部の手すりに取り付けられていた後部標識灯を撤去し、その部分にシールドビーム灯を左右1個ずつ設置しました。また、車掌室のデッキ側にある窓には、雨天時の運行に備えてワイパーも取り付けられるなど、先頭車両として必要最小限の機器を装備していました。
この推進運転用のヨ8000形は38000番台に区分され、1両が改造によって製作されました。そして、浜小倉駅ー苅田港駅間の貨物列車に連結され、小波瀬駅での機回しをせず、機関車もDD51形1両だけを連結させて、苅田港線内では列車の先頭に立ったのでした。
・トリコロール塗装に込められた顧客配慮
改造によって製作されたヨ8000形38000番台は、黒色一色の塗装から片側を朱色1色に、その反対側は朱色と白、そして青色を斜めに塗り分けたトリコロールカラーという装いでした。このトリコロールカラーに塗られた理由は、苅田港駅を利用している大口顧客である日産自動車への配慮だったといえるでしょう。日産自動車九州で完成した自動車を専用のコンテナに載せて発送し、その逆に自動車部品を積んだコンテナが到着することがほとんどであったため、顧客サービスとしてこの塗装が採用されたと考えられます。
・苅田港線の廃止とヨ8000形の終焉
しかし、2002年に門司操車場跡地を活用して北九州の貨物拠点となる北九州貨物ターミナル駅が開業すると、浜小倉駅と同様に苅田港駅も集約の対象になりました。JR貨物としては、取扱量の少ない苅田港駅を北九州貨物ターミナル駅に集約するほうが合理的であり、コンテナ貨物は最寄りの貨物駅までトラックで運ぶ事ができるというメリットもあったことから、運転取扱が煩雑でありながら、1日1往復した列車が運転されない苅田港線を廃止するほうが合理的だったのです。
2005年1月末に運行された列車をもって、苅田港線を走る貨物列車の設定はなくなりました。そして改造以来、10年以上の間を先頭車として運用されたヨ8000形38000番台もその役割を終えたのでした。
・小倉工場、小倉車両所の技術力と創意工夫
このヨ8000形の改造車である28000番台と38000番台は、いずれも九州で製作・運用されたという点が同じでした。改造工事を施工したのは、JR九州は小倉工場、JR貨物は小倉車両所と異なる組織ですが、両者は同じ敷地内にあり日頃から検査などの業務を受委託する関係であり、元々は同じ一つの組織でした。
そして、小倉工場は国鉄時代から様々なアイディアを創出しては実現する車両工場で、その技術力は本州三社に引けを取らないものだと筆者は考えています。
実際、蒸気機関車時代には特徴のある「門鉄デフ」を開発したり、大正時代に製造された蒸気機関車である8620形58654号機を復活させ、30年以上に渡って全般検査をはじめとした検査と本線走行できる状態に維持をしたりするなど、その実績は秀でるものがあるといえます。ヨ8000形を電源車や推進運転用の先頭車にするというアイディアも、小倉工場・小倉車両所だからこそできたものだといえるでしょう。
このように、様々な場面で活躍してきたヨ8000形も、2025年現在ではごく僅かが残りのみとなりました。そして、実際に運用に充てられる場面はほとんどなくなり、甲種輸送でも連結されている姿は皆無となりました。しかし、東武鉄道に譲渡された2両は幸運にもATSを機能させるための伴車としての役割のため、今しばらくは短い距離、それも私鉄でありながらも本線上を走る姿を見ることができるでしょう。
・車掌車の歴史的意義とヨ8000形の終焉
第二次世界大戦の終戦直後、GHQの命令によって緩急車の連結が義務化されたことで、貨物列車には有蓋緩急車などとともに最後尾に必ず連結されてきた車掌車は、地味な存在でありながらも安全輸送を支える重要な役割を担いました。
夜間に走り去る貨物列車には、新旧様々な車掌車が連結されている姿を何度も見たものです。古い車両であれば、室内に灯される明かりは電球で、その独特の色で照らされた車内には、遠くへと行く車掌の姿が浮かび上がるように見えたものです。

民営化後の甲種輸送では、このようなメーカーから出荷された新製車両と、それに添乗するメーカーなどの係印が乗るためにヨ8000形が運用されてきた。しかし、このような光景も徐々に過去のものとなりつつある。(©khws4v1, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)
新しい車両は蛍光灯の白い光が窓から漏れ、それはまるで夜行列車のような印象でした。いずれも、長く、そして数多くの貨車が連結された貨物列車の殿を務め、日本の物流を支え続けた立役者であることは間違いないでしょう。技術の発達と国鉄の合理化とともに車掌車はその役割を終えましたが、その功績は鉄道史の中で語り継がれることでしょう。
今回も長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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