《前回からのつづき》
■強力な2エンジン車 キニ58形
郵便荷物気動車の場合、それだけで編成を組んで運用することはありませんでした。そもそも気動車で列車を運行する線区は、大都市圏や主要幹線の電化区間と比べて輸送量が少ないことがほとんどであるため、多くは長距離を走る急行列車などに併結される形で運用されました。言い換えれば、1両ないし2両を増結すれば十分だったのです。
国鉄の急行列車の多くは、比較的多くの車両を連結した編成を組んでいました。気動車急行もそれは同じで、電車や主要幹線の客車と比べれば短いものの、基本的には一等車(グリーン車)を連結することが多く、それなりの威容を誇っていました。
こうした編成を組んだ列車は、例えばキハ58系で運用する列車の場合、多くは2エンジンのキハ58形を基本として、一等車は1エンジンのキロ28形を、そして冷房装備の場合は電源が不足するためキハ28形を組んでいました。
もっとも、こうした編成を組んだ場合は、運用する路線が平坦区間であれば一応問題なく走ることができるでしょう。しかし、キハ58系はDMH17系エンジンを搭載した車両なので、エンジンの非力さはいかんともし難いものがありました。そのため、可能な限り2エンジン車であるキハ58形を組み込んで、それをカバーしていました。
しかし、これが勾配線区になると話は変わります。例えば、中央本線のような全線に渡って勾配が続くような路線では、編成中に1エンジン車であるキハ28形を組み込んでいくと、編成全体の出力が下がってしまうため、思うような速度で走ることが難しくなります。
その一方で、急行列車のような優等列車には、二等車(普通車)だけでなく一等車のような優等車両を連結することが原則でした。グリーン車のような優等車両は、走行中の静粛性にも配慮する必要があったため、気動車のようにディーゼルエンジンを搭載していても、1基のみする必要があったのです。そのため、キハ58系の一等車であるキロ28形は走行用のエンジンは1基のみとされたため、編成出力が低くなってしまうのは避けられません。
実際、中央東線で運行されていた急行「アルプス」は、準急から急行に格上げされると同時にキハ58系に置き換えられましたが、基本となった7両編成のうち1エンジン車はキロ28形1両のみで、その他はすべてキハ58形で組まれてました。これは、勾配が続く中央東線で、そこを登り続けることができることと、急行であるがゆえに可能な限り速度を上げ保つために、2エンジン車を多く組んだと考えるのが自然でしょう。
しかし、これでは一等車の需要に応えることはできません。とはいえ、編成出力の低下は速達性を犠牲にしてしまうので、国鉄としては手持ちの車両ではどうにもならなかったのです。
そこで、一等車としての静粛性を犠牲にするバーターで、2エンジン車を製造しこれに投入することにしました。キロ58形は、その形式名が示す通り一等車でありながら、走行用のエンジンを2基搭載した車両であり、まさしく勾配が連続する中央東線の急行「アルプス」のためにつくられたような車両でした。

かつて中央東線で運行されていた急行「アルプス」は、165系に代わる前はキハ58系が充てられていた。連続した勾配が続く中央東線では、編成全体の出力が必要だった。しかし、キハ58系が搭載したDMH17系エンジンは大型で高排気量の割には出力が低いため、「アルプス」の運用に充てられた編成は、2エンジン車のキハ58形が主体となった。しかし、急行である以上、一等車の連結は必須であり、運転開始当初こそ1エンジン車のキロ28形が組み込まれていたが、後に2エンジン車となるキロ58形が連結された。後にキニ58形に改造された種車となった。他方、富士急行線へ乗り入れる運用もあったため、乗り入れ先の富士急行はわざわざキハ58系を自社発注者として導入、3両のうちキハ58003は、異色の両運転台車として本務となる001と002が欠けたときの予備として使われた。(パブリックドメイン)
その後、強力なエンジンであるDML30系の開発が成功すると、エンジン1基でキハ58形を上回る500PSという大出力の性能をもち、しかも冷房用の発電セットまでも搭載したキハ65形が実用化に漕ぎ着けると、これを編成に組み込んで、編成出力を維持するとともに冷房化によるサービスの向上をしました。
ところが、急行「アルプス」が165系電車に置き換えられると、一等車→グリーン車では数少ない2エンジン車であるキロ58形も、その役目を失いました。活躍の場を中央西線や高山本線、紀勢本線などに移したものの、急行の特急格上げによる廃止が相次いだため、徐々に余剰化していく運命を辿っていきました。
急行の特急格上げによる相次ぐ廃止、電車化などが進められたことにより、一等車→グリーン車で数少ない2エンジン車であるキロ58形は、活躍の場を移しながらも仕事を失っていきました。
その一方で、国鉄の荷物輸送は宅配便の台頭により、その輸送量は減っていながらも制度としては存続していたため、一定程度の利用はありました。今日ほど高速道路網が整備されていない1970年代後半の頃は、道路事情があまり良くない地域もあり、特に定時制を求められる新聞や雑誌の輸送は、新聞社や出版社にとって確実な輸送手段であり、国鉄にとっても上得意の顧客でした。
とりわけ首都圏から太平洋沿岸を北上する常磐線は、並行する常磐自動車道の整備がされておらず、沿線の地域にこれらの荷物を運ぶ貴重な手段でしたが、上野ー取手間は直流電化で、取手以北は交流電化であるため、荷物車を運行するためにも異なる2つの電化方式に対応できる車両が必要でした。
旅客車であれば交直流電車を、機関車であれば交直流電気機関車を容易しなければならないため、普通列車は401系を嚆矢とした近郊型電車を用意し、急行や特急は455系や485系を投入してこれに対応していました。しかし、事業用車となる荷物車については、交直流両用の車両がないため、電機方式に関係なく運行できる気動車が使われていたのです。
常磐線で運用されていた荷物気動車は、キハ55系を改造して製作したキニ55形が配置されて運用していました。ところが、このキニ55形は準急用として1950年代後半に新製されたキハ55形を種車に、改造して製作された車両のため、1970年代後半になるとさすがに老朽化は否めませんでした。
加えて常磐線は電車による列車が数多く運転されていたため、特に勝田以南は運転本数も多く、気動車といえども可能な限り電車列車の運行を妨げない加速力も求められました。そのため、1エンジン車であるキニ28形では能力不足であるため、強力な2エンジン車の荷物車が求められたのです。
そこで、同じ頃に電車化などで余剰になったキロ58形を種車に、装甲用エンジンを2基搭載した荷物気動車として、1978年に製作されたのがキニ58形なのです。

旧信越本線の横川運転所跡に開園した、碓氷峠鉄道文化むらに保存されているキニ58形。キハ58系に属する郵便荷物車で唯一の保存車であるが、経年とともに痛みが激しくなりつつある。しかし、新型コロナ改善は休日などに限って車内を解放し、国鉄時代を通して一般には見ることのできない荷物者の内部を見学でき、その構造や設備を知ることができた。鉄道に荷物輸送というものがあり、どのような車両で、どのような方法で運ばれていたのかを現代に伝えるという意味では、貴重な存在だと言える。(©Rsa, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
キニ58形は、基本的な車体構造や室内の設備は先に登場していたキニ28型と同一でした。車体は種車がグリーン車であるため構造が大きく異なることから新製され、荷物車として必要な室内設備を整えました。また、前面はキハ58系ではあるものの、当時新製が続けられていたキハ40系と共通とすることにより、設計にかかるコストや、部品を共通化することにより改造費用を抑える配慮がなされていました。
種車が2エンジン車であるキロ58形であるので、キニ58形もDMH17系エンジンを2基搭載したままとし、変速機もそのまま変えることはしませんでした。台車も種車のものをそのまま流用し、DT22/TR51形を装着していました。
その一方で、キロ58形は冷房装置を搭載していましたが、改造後は荷物車であるために不要とされ、非冷房で落成しています。
キニ58形は全部で3両が名古屋向上と幡生工場で製作され、全車が水戸機関区に配置となり、もっぱら常磐線で運用されました。
《次回へつづく》
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