《前回からのつづき》
吊り掛け駆動は構造が簡単であるとともに、長年使われ続けた構造なので、実績と信頼性は抜群でした。しかし、加速力は現在の車両とは比べ物にならないほど低く、またブレーキは堅実だけど応答性が悪く、運転士のブレーキ操作も難しい自動空気ブレーキだったため、車両の性能は低いものばかりでした。 これに加えて、多くの路線では快速列車と各駅停車が1つの線路を共用していたため、線路容量は限界近くに達し、列車を増発して対応しようにも限度がありました。この状況に国鉄も何とか改善しようと、加速・減速ともに従来の吊り掛け駆動方式の電車よりも優れた、カルダン駆動方式の101系を開発して投入したものの、やはり劇的な改善につながることは難しかったのです。
そうした中で、国鉄はこれらの路線の根本的な輸送力改善と、ラッシュ時間帯の異常ともいえる混雑を解消するために、快速と各停をそれぞれ異なる線路に分離し、列車の大増発をもって混雑の解消を目論んだ「通勤五方面作戦」を計画して、これを実施しました。
この「通勤五方面作戦」によって、中央本線・総武本線は各駅停車となる緩行線を中野ー千葉駅間での運転とし、中央快速は東京ー御茶ノ水ー新宿ー高尾間に分離、さらに総武快速は錦糸町以西を新たに建設した地下新線に移して東京ー錦糸町ー千葉間の運転に分けました。この各停と快速の分離では、それぞれ複々線化など大規模な改良工事も行われた一方で、中野ー西船橋間は新たに建設された営団地下鉄東西線を経由する運転系統も設定されたことで、大幅な輸送力を獲得することができたのです。

第二次世界大戦が終わり、戦後の復興が進むにつれて、首都圏の国電沿線には人口が急激に増えていった。これによって、郊外から都心へ向かう通勤利用者も急増し、国電の多くは「通勤地獄」「酷電」と揶揄されるほどの混雑に見舞われた。国鉄は混雑解消のために、新性能電車の投入による列車の増発などで対処したが、そもそもが戦前からのネットワークのままであったことも、根本的な解消につながらなかった。そこで、東京を中心に放射状に伸びる5方面に対して、複々線化や客貨分離など大規模な投資を伴う改善を進めた。写真の113系1000番台は、いわゆる「SM分離」として千葉方面の総武本線と横浜方面の横須賀線を複々線化、客貨分離をした上で、東京駅の地下線で稜線を繋いだ直通運転に備えて用意された車両。地下線内はATCを使うため、乗務員室後方にATC機器室を設置したため、乗務員扉と戸袋窓との間は開口部がない。(クハ111-1378〔千マリ〕千葉駅 2006年8月15日 筆者撮影)
常磐線もまた、ラッシュ時の異常ともいえる混雑に悩まされていました。千葉県北部の開発は著しく、多くの人が常磐線沿線に住むようになったため、ラッシュ時間帯は250%を超える混雑率を記録していました。
当時の常磐線は、上野ー取手ー水戸間で運転される中距離電車と、上野ー取手間で運転される快速、そして同じ区間を走る各駅停車と3つの異なる種別の列車が、1つの線路の上を共用しているという、首都圏の国鉄線では類を見ない過密状態でした。
当然、「通勤五方面作戦」の対象となり、中距離電車・快速と各停を分離させて輸送力を増強する計画になりました。特に常磐線は三河島以東では貨物列車も同じ線路を走るため、線路容量は他の路線以上に逼迫していたと考えられます。また、1962年には貨物列車の信号冒進とそれによる脱線を引き金に、上下の普通列車がそれぞれ衝突するという多重衝突事故を起こし、160名の犠牲者を出すという苦い歴史を背負っているため、国鉄としても中距離・快速と各停の系統分離は絶対に欠かすことのできない事業だったといえます。
同じ頃、運輸省の諮問機関である都市交通審議会は、第6号答申で「喜多見から松戸に至る路線の建設」を盛り込みました。この喜多見とは小田急小田原線の喜多見を指し、松戸は常磐線を指しています。つまり、小田急小田原線から都心部を通り、松戸へ至る路線が必要だとされたのです。
この答申を受けて、代々木上原から都心部を通り抜けて綾瀬に至る地下鉄の建設が決まりました。そして、営団地下鉄が千代田線として建設を進め、大手町ー北千住間の開業をさせると順次延伸をしていき、1971年に北千住ー綾瀬間の完成をもって、千代田線は全線開業に漕ぎ着けたのです。