旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 遠くへ旅に出るとき、どのような交通機関を使うでしょうか。沖縄のような海を越えていくのであれば、飛行機の一択になるでしょう。地続きのところであれば、移動する距離や行先にもよりますが、飛行機のほかに鉄道や高速バス、そしてマイカーというのも選択肢に入ってくるかもしれません。

 筆者が鉄道マンになりたての頃、九州支社勤務を命じられて北九州市の門司に赴任しましたが、赴任のための移動は会社が用意した航空券が渡され、飛行機で移動をしました。JRという鉄道会社に勤めたにもかかわらず、新幹線ではなく飛行機で移動とはなんとも不思議な感覚でしたが、今思えば、新幹線だと当時は東京―小倉間は6時間程度も時間がかかり、飛行機であれば東京羽田―福岡間は1時間30分程度になるので、合理的な選択だったのかもしれません。

 もっとも、九州支社時代は何度か実家に戻るために、福岡と神奈川の間を行き来しましたが、毎回違う方法で移動をしました。新幹線だけを使い時もあれば、すべて寝台特急で移動をしたり、ちょっとマニアックになると最終の上り新幹線で新大阪まで移動し、そこから特急「瀬戸」に゙乗り換えたり、あるいは深夜の門司駅を発車する「あかつき」に乗って、当時連結されていた「レガートシート」を堪能するなど、とにかく行程を考えるだけで楽しいものでした。

 唯一心残りがあるとすれば、その時の記録を写真に撮って残さなかったことでしょう。もし、そうしていれば今よりも何倍もの記録写真を所蔵していたことになり、このブログももっと重厚なものになったかもしれません。

 さて、昭和の時代。といっても、筆者がまだ小学生から中学生だった1970年代から1980年代にかけての頃、長距離の移動の手段は鉄道もまだ選択肢に入っていた時代でした。

 もちろん、飛行機を使う人もそれなりにいましたが、航空券を買うための運賃は今のように多種多様な割引制度はなく、しかも日本で運航していた航空会社は、日本航空JAL)と全日本空輸全日空ANA)、そして東亜国内航空TDA)の三社が主でした。TDAは後に国際線に進出するにあたって、社名を日本エアシステムJAS)に改めましたが、21世紀に入って日本航空と合併して、今は存在しません。

 

日本の航空会社が大手三社だった時代、空路の運賃はシンプルだった。片道運賃と往復割引運賃、そして予約ができないものの若年者向けの割安運賃であるスカイメイトの三種類が主だった。これは、監督官庁である運輸省の規制が厳しかった時代のもので、航空会社が違えどその価格は横並びであるため、鉄道と比べると高い設定だった。しかし、1990年代になると規制緩和の動きが活発になり、鉄道よりも設定が安い早期割引など多彩になっていった。そのため、鉄道は航空機に対して競争力を徐々に失っていくことになる。写真の日本エアシステムJAS/JD)の前身は東亜国内航空TDA/JD)で、欧州のエアバス社のワイドボディ機であるA300を導入して話題になった。その日本エアシステムは、前身の東亜国内航空時代を含めてその筆頭株主東京急行電鉄(東急)であり、東急グループの一員だった。(©contri from Yonezawa, Yamagata, Japan, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)

 

 いずれにしても、この三社とその系列が地方路線を運航しているという体制だったため、航空運賃は現在のように庶民の手に届くか届かないかという設定で、しかも普通運賃か往復割引しかなかったので、それなりにいい値段だったのを覚えています。そのため、飛行機で移動をするのはビジネスパーソンが社用で移動をするか、家計に余裕がある中流以上の富裕層の人たちが多かったのです。

 鉄道で移動をするとなると、やはり国鉄を使うことになります。時間はかかるけど、飛行機ほど高くない鉄道であれば、使いやすかったのかもしれません。国鉄の運賃は、国民が使いやすいように安価に設定されていたため、庶民が長距離を旅行するには第一選択になっていたと考えられます。

 ところが、国鉄が抱える債務は年々膨らむ一方で、その額は一体何年、いえ何十年かかって返すことができるのか分からない莫大になり、ともすると「天文学的数字」とさえ揶揄されるほどでした。

 国鉄は少しでも債務の額を減らそうと、運賃などの値上げに踏み切ることになりますが、それが毎年のように繰り返されると、飛行機の運賃との差が縮まってしまいました。そして、国民にとって使いやすい運賃設定だったのが、相次ぐ値上げによって「時間がかかって値段が高い」ということになってしまいました。

 加えて、国鉄が抱える巨額の債務が社会問題になり、しかも相次ぐ運賃の値上げによって、国民の国鉄に対する視線は厳しさを増していきました。悪いことに、国鉄職員の横柄な接客態度や、モラルが崩壊した職場環境とそれに起因する事故、労使関係が極端に悪化していたことから頻発したストなどによって、通勤通学では並行する私鉄があれば利用客はそちらに移り、金額に差がなくなったことで長距離の移動は飛行機に流れていきました。いわゆる「国鉄離れ」で、さらに拍車をかけたのは安価な運賃設定の高速バスが台頭してきたことです。

 1980年代に入ると「国鉄離れ」は深刻になり、もはやどうしようもないほどの状態に陥ってしまいました。これが一般の民間企業なら、債務超過によって倒産していたかもしれませんが、そこは国の公共企業体。「親方日の丸」なので潰れることはないにせよ、政府もこれ以上放置していくわけにもいかず、国鉄再建は喫緊の大きな課題になっていきました。

 国鉄離れが進み、長距離の移動は飛行機や高速バスに奪われ、鉄道の優位性が失われていく中、国鉄はただ手をこまねいて見ていたわけではありませんでした。運賃の値上げにも限度があり、さらなる収益を得るために様々な施策を進めるようになっていきます。

 例えば中長距離の都市間輸送を担っていた特急列車は、それまでは長大編成を組んで走らせるのが当たり前であり、国鉄の伝統でもありました。しかし、利用率が低迷する中で、空席ばかりが目立つのでは運用コストだけが嵩むばかりです。そこで、輸送力を適正なものに変えるために、思い切って編成を短くし、捻出された車両は列車の増発に充てて、利便性を高めようとしました。

 

国鉄時代、特に「汽車ダイヤ」と呼ばれるダイヤ編成をしていた線区では、特急列車はもちろん、急行列車や普通列車に至るまで多くの車両を連結した「長大編成」を組むのが基本だった。列車の運行頻度が少ないため、一度で多くの旅客を輸送するという発想から、1列車あたりの連結両数が多くなるのは必然だった。しかし、1970年代後半頃から、巨額の債務を背負った国鉄は増収増益のために運賃を相次いで値上げしたことや、労使間の極度の対立を背景にしたストの頻発や遵法闘争による列車の遅延が常態化していたことから、次第に国民の信頼を失っていった。それらを解決するための策として、列車の運転本数を増やし、「待たずに乗れる」国電ダイヤの移行によって乗客を呼び戻そうとした。そのため、国鉄の伝統ともいえた長大編成を組むことを諦め、1列車あたりの連結両数を減らしていった。写真の急行「アルプス」のような列車は、1980年代中頃には「過去のもの」になってしまった。(©Shellparakeet, CC0, via Wikimedia Commons)

 

 また、当時から賛否があった施策の一つに、急行列車を特急へ格上げすることでした。「格上げ」といえば聞こえはいいですが、安価な料金設定だった急行を特急にすることは、特急料金で増収を図るという実質的な値上げでしたが、国鉄にとってなりふり構っていられなかったと考えられるでしょう。

 このような厳しい経営環境の中で、この時期から新たなサービスの開発にも力を注ぎ始めました。その一つに、ジョイフルトレインと呼ばれる豪華な接客設備を備えた車両を相次いで投入し、団体列車などに充てていきました。

 これらの車両は改造者であるものの、そのほとんどはグリーン車に設定されていたので、団体臨時列車であれば運賃のほかにグリーン料金も収受できるので増収につながります。加えて、これらの車両を臨時の特急列車、例えば品川客車区配置の「サロンエエクスプレス東京」を臨時「踊り子」に充てて運行すれば、運賃と特急料金のほかに、すべての車両がグリーン車なので、乗客すべてからグリーン料金もあるので、団体臨時列車よりも増収が期待できたのです。

 このジョイフルトレインのほかにも、国鉄はそれまでになかったサービスを開発します。その一つが「カートレイン」だったのです。

 

《次回へつづく》

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