第2章 東北最大の難所 33.0パーミルの板谷峠
板谷峠は福島県と山形県の県境に立ちはだかる奥羽山脈の峠で、江戸時代は米沢藩が参勤交代のために越えなければならかった隘路です。標高755mの峠はそれほど高いと感じることはないかもしれませんが、当時から、この板谷峠を越えるのには相当な苦労がともなったようです。
板谷峠のある奥羽山脈は、北は青森県の夏泊半島から、南は栃木県の那須岳連峰にいたる長大な山脈で、東北地方のほぼ中央部を貫くように立ちはだかっています。その中にある板谷峠は、碓氷峠のように方峠ではなく、峠の頂上を境に両側に勾配をもつ一般的な形状をし、ここを境に東側には阿武隈川水系が太平洋に注ぎ、西側には最上川水系が日本海に注ぐという、いわゆる中央分水嶺でもあるのです。この点では、碓氷峠に近いものがあると言えるでしょう。
他方、板谷峠がある吾妻山を中心とした山々は火山でもあり、今もなお火山活動が観測されるなどとともに、冬季には豪雪に覆われるといった、自然環境の厳しいところでもあるのです。
そんな自然環境が険しい板谷峠ですが、昔から交通の要衝でもありました。特に出羽国列藩に通じる主要道として、板谷街道が設けられました。福島県の福島宿から板谷峠を越えて、米沢宿を経て上山宿へ至る街道は、これら沿道の出羽国列藩にとっては重要な交通道路であり、米沢藩や庄内藩などにとって参勤交代で使う道でもあったのです。
日本に鉄道が建設されるようになると、その街道に沿って鉄道線路を建設するというのはごく自然の流れでした。1892年に公布された鉄道敷設法では、その第2条において奥羽線として「福島県下福島近傍ヨリ山形県下米沢及山形、秋田県下秋田青森県下弘前ヲ経テ青森ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ山形県下酒田ニ至ル鉄道」として示され、早くも同年から翌1893年にかけて第一期路線として計画の承認と実地調査が行われています。そして、これらの手続きが終わるとすぐに着工し、1899年には板谷峠を含む福島駅-庭坂駅間が開業しました。
奥羽本線は奥羽山脈を越えるルートに敷設されたため、途中、板谷峠を越えなければならない。平均33.0パーミル、最大で36.0パーミルという勾配が連続して立ちはだかるが、数値だけ見ると碓氷峠よりは緩やかだと捉えられてしまう。しかし、冬季になると有数の豪雪地帯の中を走ることになり、スイッチバックによって越える線路には降雪対策としてシェルターを備えるなど、特殊な設備を数多く擁していることから、国鉄の「三大難所」の一つに数えられている。 (©Soren Bradley, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)
しかし、険しい地形とともに、冬季には大雪が降り積もる豪雪地帯でもあり、日本の鉄道の中でも屈指の厳しい自然環境の中にある路線でした。そのような中にあって、特に列車の運行を困難にしたのは、およそ22kmにもわたる長い距離を、平均33パーミル、最急勾配で38パーミルにも及ぶ連続した勾配と、半径300m(300R)の急曲線、さらにトンネルが19か所もあるという線形でした。そのため、これらの厳しい線形を克服するため、少ない予算で実現させるためには、途中駅をスイッチバックにすることで解決しましたが、4駅が連続してスイッチバック駅としたのは、国鉄線ではあまり例のないことでした。それだけ、この板谷峠が非常に険しい場所だということがうかがわれます。
このような線形と勾配では、本務機単独で峠を超えることは非常に困難でした。当然、補助機関車を使うことが考えられましたが、当初は碓氷峠と同様にアプト式を採用することも遡上に乗ったといいます。
しかし、アプト式のようなラック式鉄道は構造が特殊かつ複雑で、運用する機関車も専用機を必要とします。碓氷峠のような急勾配では粘着式鉄道ではどうにもならず、ラック式鉄道を採用せざるを得ませんでしたが、板谷峠は最大でも38パーミル、平均で33パーミルなので粘着式鉄道を採用する余地があったと考えられたのでしょう、結果として後者を採用することになりました。
そして、板谷峠に投入されたのは、大型テンダー蒸機である9200形と中型タンク機である2100形でした。しかし、9200形牽引の客車列車がトンネル内で空転が頻発、大量に発生したばい煙により乗務する機関士と機関助士を窒息して昏倒し、列車は勾配を後退し始めたため後部補機に乗務していた機関士らがこれに気づいて非常ブレーキをかけたものの、急勾配であったためにブレーキは効かないまま後退を続け、赤磐信号場内に侵入して脱線転覆するという事故を起こしてしまいました。
この事故で、乗務員3名と乗客1名が死亡、乗務員3名と乗客27名が負傷するという惨事になりました。この事故を契機に、板谷峠で運用する補機として、より粘着性能に優れた強力な機関車が求められ、国鉄の蒸機としては例のない動輪軸を5軸として強力な牽引力をもち、先輪をもたずに粘着性能を最大にした4100型を、バイエルン王国のJ.A.マッファイ社から4両を輸入、さらに4100形をもとに改設計をしたうえで国産化した4110形を投入し、板谷峠を越える列車の補機専用機として運用しました。

機関車の粘着力を高めるために最も簡単な方法は、動輪軸にかかる軸重を重くすることだった。しかし、この方法では軌道への負担が大きくなるため、相当の強化工事を施すか、車両の通過速度を大幅に制限するなどの対策を採らなければならない。そのため、軸重を重くするのは現実的ではないため、代わりに動輪軸の数を増やす方法が採られる。蒸機では特にそのことが顕著に表れるため、勾配が厳しい峠越えの補機用機として、動輪軸を5軸にした輸入期である4100形と、これを元に国産化した4110形がつくられ、板谷峠越えの運用に充てられた。美唄鉄道東明駅跡地に保存されている4110形は、国鉄ではなく三菱鉱業が発注した私鉄機であるが、設計は4110形と同形であり、後に国鉄から譲受した車両と合わせて石炭輸送に使った。そして、青梅鉄道公園(2025年現在はリニューアル工事のため休園中)に保存されているE10形とともに、数少ないE級蒸機である。(4110形蒸気機関車・三菱鉱業美唄鉄道2号機関車 東明駅跡 2016年7月26日 筆者撮影)
第二次世界大戦が終わった1948年になると、老朽化したこれらの蒸機を置き換えるため、動輪軸5軸と先輪1軸、従輪2軸を備えた軸配置1E2とし、D51形と同等のボイラーを備えた大型機であるE10形が製造されて、板谷峠区間を運用範囲にもつ庭坂機関区に配置されました。
E10形も4100形や4110形と同様に補機専用機として運用されましたが、すでにこの頃は石炭事情の悪化と、それにともなって電化による動力近代化が進められ始め、配置されてから1年後の1949年には、奥羽本線の板谷峠区間が直流電化されたことで、E10形はわずか1年で板谷峠の補機としての役割を失ってしまったのです。
いずれにせよ、碓氷峠に並ぶ国鉄の難所であり、補機専用機を必要としたという点では同じ環境だったことや、蒸機による運行では、吐き出されるばい煙とそれが原因による乗務員の作業環境の劣悪さは問題となり、結果、早期の電化と電機への置き換えによってこれを解決したという点でも同じだったといえます。
こうして、板谷峠区間も電化されたことで、補機専用機となる電機が庭坂区に配置されることになったのです。
《次回へつづく》
あわせてお読みいただきたい