《前回からのつづき》
1975年に奥羽本線の全線が電化されると、「つばさ」からキハ181系は撤退していき、替わって485系に置き換えられると、ようやく単独での走行を実現させ、EF71形の補機運用も終わったのでした。
1980年になると「あけぼの」が24系25形に置き換えられると、ED78形が2両増備されました。「あけぼの」の福島ー山形間はED78形の増備機による限定運用とされましたが、米沢駅で上下の「あけぼの」がすれ違うというダイヤ編成では、2両のED78形では足りないため、結局はEF71形がその運用に充てられることもしばしばあったようです。また、1982年になると急行「津軽」の特急格上げによる「あけぼの」が増発されると、ED78形との重連運用が定着しました。
しかし、これも長く続くことはありませんでした。急行の特急格上げは、一見するとグレードアップ、到達時間の短縮になります。しかし、それまで安価な急行料金で乗ることができた列車がなくなり、高い特急料金を支払わなければならなくなるなど、必ずしも利用者にとってメリットばかりではありませんでした。運賃の相次ぐ値上げとともに、料金券も実質の値上げになると、利用者は安価な高速バスへ移行していくようになり、「あけぼの」の利用者は減る一方になっていったのです。その結果、1986年のダイヤ改正で、「あけぼの」は列車編成の見直しによって減車されてしまいましたが、板谷峠を越えることには変わりなかったので、ED78形との重連運用は残っていたようです。
1987年に国鉄が分割民営化されると、EF71形は福島機関区から名称を変えた福島運転区配置のまま、JR東日本に全車が継承され、引き続き奥羽本線での運用に充てられました。翌1988年になると、青函トンネルが開通したことで東京(上野)ー札幌間を結ぶ寝台特急「北斗星」の運転が開始されると、「あけぼの」は1往復削減となってしまい、EF71形の活躍の場が狭まり始めたのでした。それでも、「あけぼの」の運転は続けられ、ED78形またはEF71形どうしの重連、またはED78形とEF71形の重連運転は行われ続けました。

本来は板谷峠越えの補機として登場したEF71形だったが、本務機であるED78形が仙山線の運用にも進出したことで、所要数を確保するためにEF71形が本務機を務めることになるなど、本務機と補機の区別が曖昧になってしまった。いわば共通運用を組むことで、運用側の負担を減らした形になるが、強力機であるEF71形が本務機を務めることで、出力にも余裕が生まれたといえるだろう。そして、その恩恵は寝台特急の先頭に立ち、ヘッドマークを誇らしげに掲げて奥羽路を駆け抜けていった。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
しかし、この頃になると旅客列車は効率の悪さから客車から電車への置き換えが進められていきます。貨物列車も分割民営化後は奥羽本線を経由していたものの、仙山線の軌道改良工事が終わると、列車重量に制限がある奥羽本線ではなく、仙山線経由に変えられるなどして、EF71形にとってますます厳しい環境になっていきました。
1990年から新在直通新幹線構想に基づく奥羽本線福島ー山形間の標準軌への改軌工事が始まると、それまで複線だったのが単線に変わり、夜行列車の削減によってEF71形の運用も減ってしまいました。翌年にはついに、残っていた普通列車と貨物列車の運行も終了し、ついにすべての運用を失ってしまったのでした。
ED78形は仙山線に活躍の場を求め異動していましたが、EF71形は奥羽本線での運用に終始したため、改軌工事の進捗による運用削減、そして廃止は大きな痛手となってしまったのです。そして、運用終了後は福島運転区に留置されましたが、軸重の重いF級機であることや、交流機はD級機が主体であり、構造も装備も特殊でほかへの転用先もないこと、そして旅客会社ではこのような大出力交流機は必要がないことなどから、1993年に開発から25年の歴史に幕を閉じ全機が廃車、形式消滅しました。
碓氷峠に次ぐ隘路でもある板谷峠を越える列車にとって、交流電化への切り替え後はEF71形は欠かすことのできない存在であったといえるでしょう。また、冬季は豪雪地帯になる奥羽路では、その過酷な気象条件をものともせずに多くの人々や貨物の往来を支え続けてきたことは特筆に値するものだといえます。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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