旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 「魔改造?」出自が変わり種で国鉄最初で最後の1M方式旅客電車・123系【12】

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《前回からのつづき》

 

 2001年になると、宇野線の列車がワンマン化されることになり、ワンマン運転用の設備をもたないクモハ123-5・6を使い続けることができなかったのです。クモハ123形は1両編成で運行ができる車両なので、それならワンマン運転用に料金箱や運賃表示器を追加すればいいのではないかと考えられるでしょう。しかしながら、前述の通りクモハ123-5・6は種車となったクモニ143形の構造を可能な限り活用したため、乗降用扉の位置は変則的で、しかも乗務員室のすぐ近くにはないため、料金箱を設置したとしても停車するたびに運転士がそこに行かなければならないので、その負担は大きくなってしまいます。合理化のためのワンマン化が、かえって運転士の負担を増すことになり、そのことは運転業務に集中できないなど安全運行に差し障ると考えられるのです。

 結局、適当な転用先もないまま、クモハ123-5・6は岡山電車区に配置されたまま、福塩線の運用に充てられました。福塩線には、国鉄時代に同じ新性能1M方式電車である105系が配置されていましたが、これと共通運用が組まれたのでした。

 105系と共通の運用に就いたクモハ123-5・6は、福塩線はもちろんのこと山陽本線や赤穂瀬などにも顔をだすことになり、混雑時には105系2両編成と組んで4両編成で運行されるなどしました。

 ところが、この福塩線山陽本線赤穂線での運用もわずか1年で終了になってしまいます。

 

宇野線は、かつては寝台特急「瀬戸」が走った本州と四国を結ぶ交通の要衝としての機能を持っていた。瀬戸大橋線が開通すると、航路である宇高連絡線を介すことなく鉄道のみで本四連絡輸送を実現できた一方、末端部の茶屋町ー宇野間は本四連絡線から外れて支線級へと事実上の格下げになり、輸送量も極端に少なくなっていった。本来であればクモハ123形を製作して投入すべきところを、種車が既に枯渇してしまっていたため、やむなく国鉄から継承し保留車となっていた旧性能電車であるクモニ83形を旅客車化したクモハ84形を配置して運用に充てていた。しかし、出自が1947年に製造された63系であるクモハ63738であり、72系化改造によってモハ72274となったあとにクモニ82005へと改造された長い車歴をもっていたため、1995年の時点で老朽化も相当進んでいた。この置き換えのために、羽衣支線から転出してきたクモハ123-5・6がその役割を替わることになった。(出典:写真AC)

 

 山口県にある宇部小野田線で活用することが決まったのです。

 宇部線小野田線には戦前製のクモハ42形が、老骨に鞭を打ちながらも活躍していました。1957年に横須賀線伊東線から転属してきたこの車両は、それ以来、40年以上に渡ってここを走り続けてきた古豪でした。そして、かつて鶴見線大川支線を走っていたクモハ12形とともに、民営化後も残った最後の旧形国電として、地域の人々を運び続けていたのです。

 しかし、製造から半世紀以上も経ち、しかも21世紀に変わった2000年代に入ると、さすがに老朽化も激しくなり、交換用の部品の枯渇は保守の面でも大きな課題になっていました。当然、古くなればなるほど運用のかかるコストは上昇するので、これ以上使い続けることは難しくなっていたのです。

 JR西日本は、この古豪であるクモハ42形を置き換えることにしました。そして、ちょうどよいタイミングで、岡山電車区に配置されていたクモハ123-5・6も、より適した運用に就くことができる転用先を探していたのです。

 こうして、クモハ123-5・6は新たな活躍の地として、宇部線小野田線で運用されることが決まり、1995年から7年ほど過ごした岡山電車区から、本州最西端に近い下関運転所へと移っていきます。移るといっても配置区所が変わるのではなく、岡山電車区に所属したまま宇部線小野田線での運用に就かせるために、貸し出しという形でいどうになったのでした。

 クモハ123-5・6からみたら「大先輩」でもあるクモハ42形に代わって、宇部線小野田線での運用に充てられたこの2両は、1両編成で運行ができる新性能電車という利点を大いに発揮することになります。吊り掛け駆動式と比べれば、振動が少ないため軌道への負担を大幅に減らすことができ、そのことは軌道の状態を良好に保つことができる期間を長くすることができました。

 また、ブレーキ装置も旧性能電車は自動空気ブレーキを使っていたので、発電ブレーキ併用の電磁直通ブレーキは、制動力や応答性も高くなるばかりでなく、運転士のブレーキ操作も容易なものにしました。105系にも乗務する運転士にとっては、旧式で操作も難しい自動空気ブレーキと、操作が容易な電磁直通ブレーキという異なる方式が混在することによる負担も軽減されることになります。

 貸し出しという形とはいえ、宇部線小野田線での運用に就いたクモハ123-5・6ですが、やはり問題になったのは乗降用扉の位置でした。乗降用扉は2か所あるとはいえ、片側に偏った位置にあることは、特にラッシュ時の乗降時間に影響を及ぼします。また、ワンマン運転を行うためには、料金箱などを設置しなければなりませんが、その場合、乗務員室からできるだけ近い場所に扉があるのが理想です。しかし、クモハ123-5・6は前位側に偏っているため、そうしたことも難しくしてしまっていました。

 

宇野線福塩線での運用も短く終わってしまったクモハ123-5・6は、さらなる転用先を求めることになる。同じ頃、小野田線本山支線では戦前製の省形電車であるクモハ42形が老骨に鞭を打って運用に就いていた。しかし、老朽化や補修用部品の枯渇など、運用を続けることが年々困難になっていたため、これを置き換えるために半ば余剰車となっていたクモハ123-5・6に白羽の矢が立つ。宇野線でも旧形国電を置き換え、今度は小野田線でも同じく旧形国電を置き換えるという、同じ役目を二度も負うのは運命のいたずらといっても過言ではないだろう。(パブリックドメイン

 

 こうした課題を解決するために、ついに大きな特徴ともいえた乗降用扉を均等な位置にするための改造工事が2002年に施されたことで、外観は登場時と異なり大きく変化しました。また、2003年3月にはワンマン化工事を施工し、その年の7月には正式に下関運転所に配転となり、先に下関に来ていたクモハ123-2~4とともに、宇部小野田線の運用に就き続けることになったのです。

 この間に、塗装もクモハ123-2~4と同じ、白色を地色に裾部に青い帯を巻いた塗装になりましたが、2010年以降は瀬戸内統一色と呼ばれる濃黄色1色に塗り替えられることになり、順次装いを改めていきます。とはいえ、大規模検査が施行されたときに塗り替えることになっていたので、しばらくの間は新旧の塗装が混在していましたが、2015年にクモハ123-6を最後に下関所配置車すべてで塗装変更が完了し、以後は濃黄色1色のクモハ123形がすべて集うようになりました。

 2025年現在も、JR西日本が継承したクモハ123形は、すべて下関総合車両所に配置され、宇部線小野田線の運用に充てられています。国鉄が製造した悲運の荷物車を改造して誕生した、発の旅客用新性能1M方式電車は21世紀も四半世紀が過ぎたいまでも、その姿を見せてくれているのです。

 

《次回へつづく》

 

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