旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄の置き土産 酷寒の大地を走るためだけに生まれた特急気動車・キハ183系500・1500番台【3】

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《前回からのつづき》

 

 1960年に登場したキハ80系は、先頭車となるキハ81形と、中間車であるキハ80形、そして一等車のキロ80形、食堂車であるキサシ80形で構成されました。先頭車となるキハ81形は、冷房装置や室内灯などに電力を供給するためのサービス発電用発電セットを搭載するため、走行用のエンジンは1基のみの搭載でした。そして、発電セットを搭載するためにボンネット構造となりましたが、曲線を多用した独特の形状から「ブルドック」と愛称がつけられました。

 キハ80形とキロ80形は走行用のエンジンを2基搭載、食堂車となるキサシ80形は大型の水タンクや発電セットを搭載するため、気動車としては珍しい付随車となりました。いずれも製造当初から冷房装置が装備され、キノコ型のキセをもつAU12形分散式冷房装置を備えました。

 台車も特急用車両として遜色ないものとされ、気動車用のDT22形の枕ばねをベローズ式空気ばねに変更したDT27形・TR67形を新たに開発して装着しました。

 この独特な形状を持ったキハ81形と、同時に製造されたキハ80形などのグループは、計画通りに東北本線の特急「はつかり」に投入され、上野ー青森間での運用に充てられました。9両編成を組んだ初の気動車特急「はつかり」は、一等車2両と食堂車1両を組み、尾久客車区に配置され、翌1961年3月のダイヤ改正気動車ダイヤに変更したことで、従来よりも到達時間を45分短縮するなど本領発揮となりました。そして、その年の10月からはさらに到達時間が短くなり、10時間30分を切るダイヤ設定となったことで、客車時代と比べると1時間も短縮させることができました。

 とはいえ、キハ81系は初の特急用気動車として試作的な要素が強く、国鉄は旅客需要の増大による輸送力増強と改善は喫緊の課題であったことから、翌年には全国で特急列車を大幅に増発することを計画していました。そして、非電化亜幹線では、キハ81系の実績や課題をフィードバックした改良設計を行ったキハ82系を設計・製造し、これをもって気動車特急の増発をすることにしたのです。

 先頭車は新たに設計されたキハ82形が登場しました。キハ82形はキハ81形で特徴的だったボンネット構造ではなく、分割併合が容易になるように貫通構造となり、運転台は一般の気動車と同様に低い位置に設けられるとともに、運転士の視界を確保するため全面窓は側面まで回り込んだパノラミックウィンドウになりました。そのデザインは、一般形気動車のような実用本位の無骨なものではなく、特急用車両としてふさわしい曲線を多く使った優美なものを目指しました。このデザインは、後に製造されるキハ181系はもちろん、分割民営化後のキハ189系や、さらに373系電車にも受け継がれています。

 先頭車がボンネット構造ではなく、貫通構造になったことで、発電セットは床下に設置されました。そして冷却系の機器を設置するため、乗務員室と客室の間には機器室もも行けられ、車体の側面にはルーバー窓が、屋根上には冷却ファンも設置されていました。

 

戦前から、内燃動車=気動車の開発は試行錯誤の連続であり、気動車用のディーゼルエンジンであるDMH17系の実用化は気動車の開発を加速させ、無煙化の推進をさらに推し進めることにつながった。キハ10系が国鉄初の量産気動車として運用に就くが、エンジンが非力であるがために客車や電車よりも一回り小さいサイズの車体にせざるを得ず、非電化区間優等列車は客車列車での運行を強いられていた。車両重量を大幅に軽くすることを実現した10系客車の経験は気動車にも活かされ、キハ20系、準急用のキハ55系の開発へとつながる。そして、これらの成績から、国鉄は特急用気動車としてキハ80系を開発することになった。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 中間車は基本的にキハ81系と同じで、キハ80形とキロ80形はエンジンを2基搭載していましたが、排気管の過熱対策を施すなど僅かに改良されました。その一方で、食堂車は新たに走行用エンジンを1基搭載したキシ80形が設定されました。これは、キハ81系では食堂車が付随車であるキサシ80形でしたが、非力なDMH17系エンジンを搭載していたため、特に勾配区間では編成出力の不足が指摘されたため、これを改善するために食堂車にも走行用エンジンを搭載することにしたのでした。

 こうした改良が加えられたキハ82系は、1961年に日本海縦貫線を経由する大阪ー青森間の特急「白鳥」に充てられました。この列車は、関西地区と北海道を連絡する役割を担うとともに、大阪と東京を発着の列車も設定されました。そのため、同じ愛称の列車であるにも関わらず、大阪ー青森間を走る列車があり、前者を青森白鳥=青森編成、後者を信越白鳥=上野編成と呼ばれていたようです。

 青森編成、上野編成ともに6両編成で、一等車であるキロ80形と食堂車のキシ80形をそれぞれ1両ずつ連結していました。そして、二つの編成は直江津で分割併合されるため、大阪ー直江津間は1本の列車に食堂車が2両連結されるという珍しい編成になっていました。

 その後、上野編成が増車されて7両編成に、そして青森編成も遅れて1良三謝されて7両編成になり、合わせて14両編成を組んで運行されていました。しかし、1965年に上野編成を「はくたか」として分離したため、食堂車2両を組んだ珍しい列車も4年で終わり、後に「やくも」と共通運用になるなど変化していきました。そして、この「白鳥」の成功はほかの線区にも波及していき、国鉄が目論んだとおりにキハ82系は地方亜幹線の特急列車を設定し、輸送力を増強することにつながっていったのでした。

 

《次回へつづく》

 

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