旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄の置き土産 瀬戸内を渡るためにつくられた国鉄最後の新系列・213系【2】

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《前回からのつづき》

 

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 本州と北海道、四国を陸続きで結ぶという構想の下、津軽海峡は海底トンネルによって横断することが計画され、1961年から建設が始められました。一方、本州四国間は海底トンネルではなく、瀬戸内海に浮かぶ島々を橋で結ぶことになりますが、ルートの選定を巡っては地元の思惑なども重なり誘致合戦が活発となり、多くの案が出される事態になりました。

 1959年になると、ルート選定のために出された多くの案の中から、宇高連絡船の航路にほぼ沿った「宇野・高松ルート(Bルート)」と「玉野市日比・高松市笠井ルート(Cルート)」、そして「児島・坂出ルート(Dルート)」の3つに絞られますが、それでも候補地となった自治体を中心にした誘致合戦や、国への陳情などが延々と繰り広げられました。

 こうしたあたりが、青函トンネルとは違って本四連絡橋の着工が出遅れた理由の一つになったと考えられますが、そもそも宇高連絡船の代替としての連絡橋は宇野・高松を結ぶルート(Bルート)にするのが本筋といえるものの、このルートは橋を支える橋脚を建設するための島が少ないため、架けるとすれば橋脚と橋脚の間のスパンが非常に長大なものになってしまうなど、技術的に困難であるとともに、莫大な建設費がかかることが調査中にわかったことから、選定から外れることになりました。

 その結果、本州と四国の間に大小の島が多くあることで、1本の橋の長さをある程度抑えるなど、当時の技術水準としては実現可能なことから、宇高連絡船よりも西側に設定された児島・坂出ルートが選定されたのが1966年のことで、宇高連絡船紫雲丸事故から11年の月日がかかっていました。

 

本州と四国を隔てる瀬戸内海は、大小多くの島々が点在するとともに、多くの船舶が行き交う内海である。鉄道にとってはこの瀬戸内海は本州と四国の間を立ちはだかる存在であり、その輸送には連絡船を使わなければならなかった。しかし、相次ぐ海難事故によって犠牲者を出した結果、鉄道や道路によって直接結ぶことは悲願とされ、その実現に向けて多くの努力がなされた。そして、1988年にその悲願は現実のものとなり、瀬戸大橋の完成と本四備讃線の開業、瀬戸中央自動車道の開通へと漕ぎ着けた。瀬戸大橋は上部を道路、下部を鉄道が通る併用橋であり、全長12,300mに及ぶその長さは鉄道道路併用橋としてはギネスに認定される世界一の長さである。(出典:写真AC)

 

 しかしながら、11年の月日をかけてルートの一本化を図ったとしても、この時点でまだ正式決定には至っていませんでした。瀬戸大橋は空前の巨大な橋になるため、様々な調査や実験をする必要があったからです。

 1970年になると本四連絡橋の建設を所掌事務とする本州四国連絡橋公団が設立され、日本道路公団と鉄道建設公団から本四連絡橋にかかわる業務を継承し、事業の推進を担うことになります。そうした中で、建設にかかる資金の調達も目処がつき、いよいよ着工に漕ぎ着けると思われていた矢先、1973年のオイルショックによって延期されることになりました。

 着工こそ延期されたものの、この間にも事業に着手するために様々な手続やら交渉やらが進められます。地元の漁協とは漁業補償交渉を行い、島嶼部では埋蔵文化財の発掘調査を、そして環境影響調査などすべきことは山積していました。

 こうした複雑な手続や調査、地元との調整、資金の調達、自治体との合意などを経て、瀬戸大橋が着工したのは1978年のことであり、紫雲丸の事故からすでに23年という年月が経っていました。

 着工してからは早いもので、島嶼部などでは瀬戸大橋の一部が貫くためのトンネル掘削工事が進められ、1984年の鷲羽山トンネルの西側鉄道トンネルが貫通すると、その後次々にトンネルが貫通していきます。1987年にはすべての橋桁が結合されると、その後は急ピッチで本四備讃線の軌道敷設工事が進められました。

 1988年には鉄道総合技術研究所(JR総研)による車両走行試験が実施され、電車や気動車、電気機関車を使って実際に車両が走行することによって、橋の状態がどのようになるのかが調査されました。

 

ギネスに認定されるほど長大な橋に、高速で走行する鉄道を走らせるという経験は世界中どこを探しても皆無だった。そのため、瀬戸大橋の完成と本四備讃線の開業に向けて、重量のある鉄道車両が高速で走行できるのかを確かめる必用があった。この難題に対して、鉄道総合技術研究所はJRが保有する重量級車両を使って、高速走行試験を実施した。EF66形、EF65形そしてEF62形を連ねた試験列車は、完成したばかりの瀬戸大橋を渡った。機関車だけで8両編成を組んだ試験列車もまた、後にも先にもなかったものであり、慎重にことを進めた表れでもあった。(©spaceaero2, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 世界でも類を見ない長大な橋が、列車が走行することでどのような影響を受けるのかは未知のものであるため、こうした試験は欠かせなかったのでしょう。特に、EF66形を先頭に、EF65形やEF62形を8両も連結した荷重試験では、1つの列車に機関車が9両も連結されるという、前代未聞の試験列車が運転されましたが、こうした試験も瀬戸大橋があまりにも長大なものであり、重量が重い列車が走行するときに橋にどのような影響を及ぼすのかが分からないために行われたのです。

 こうして長い月日と莫大な建設費をかけた瀬戸大橋は、1988年4月に道路部である瀬戸中央自動車道と、鉄道部であるJR四国本四備讃線として改行し、瀬戸大橋を建設する要因となった悲惨な海難事故から33年が経っていたのでした。

 

《次回へつづく》

 

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