留里線の心臓部・久留里駅:タブレット閉塞が残る城下町の鉄道風景
《前回からのつづき》
久留里駅は路線名の由来となっている駅で、木更津を除く久留里線の全駅を管理する管理駅となっている。上下列車の交換を行う横田駅や、タブレット交換をする終着の上総亀山駅(※)は駅員配置のある直営駅ではあるが、列車交換やタブレット授受という運転業務を取り扱うための駅員配置で、営業管理面では久留里駅の被管理駅という位置づけだ。

▲上:平山駅の駅名標。国鉄時代のサイズそのままのものを活用しているが、書体は国鉄時代に使われていた「角丸ゴシック」ではなく、ごく普通の角ゴシック体であることから、近年新しく作り直されたことが窺える。 下:久留里線により沿うように流れる小櫃側も、上総亀山に近づくにつれて川幅も狭くなっていく。流れはわからないが、渓谷になっているところもあり、車窓から眺めることができる。(2012年1月5日 筆者撮影)
久留里駅は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面で2線で、久留里線の駅の中では比較的大きく広い構内をもっている。これだけの設備をもっているので、当然この駅で上下列車の交換を行うが、横田駅とこの久留里駅で1閉塞区間を設け、さらに久留里駅と終着の上総亀山駅で1閉塞区間を設定しているので、必ずここでタブレット授受が行われる。
筆者も業務の邪魔にならないように気をつけながら、その様子を観察してみた。本やウェブなどでは、タブレットを授受する光景を見たことあるが、実際に自分の目でこうして光景を見るのは初めてだった。
とにかく、タブレットを入れたキャリアが思っていた以上に大きい。そして、なんと言ってもその形は昔ながらの無骨さを感じさせる。この光景も、この3月に行われるダイヤ改正で姿を消すというから、古き鉄道の光景がまた一つ減るのは寂しい話だ。

タブレットキャリアを運転士に渡す当務駅長の任に就く駅係員。2012年1月当時の久留里線は、首都圏でも残り少なくなった通票閉塞を用いる路線だった。首都圏をはじめ大都市圏や幹線では国鉄時代に継電器(リレー)で構成された継電連動装置を用いる自動閉塞が、さらには民営化前後にはコンピュータを使った電子連動へと変化していった中で、駅員が閉塞区間への進入を運転士に直接許可するこの方式は、運転本数が少ないローカル線で運用されるのみだった。しかし、さらなる合理化と収益性を上げる必要から、在線管理は車両に搭載されたGPS装置によるものに代わり、運転取扱はすべてCTCに置き換えられ過去のものとなった。(久留里駅 2012年1月5日 筆者撮影)
余談だが、筆者が鉄道員に成り立ての頃、友人は高崎機関区に配属になったものの、動力車操縦免許を取得できる年齢に達していないので、当然車両整備をしているのかと思いきや、実際には機関士の制服を支給されて、八高線のタブレット授受要員として機関車に乗務していたという。既に機関助士という制度はないのだが、この友人は幸運にも機関車乗務をすることができたのだ(ちなみに筆者は地上勤務のままだった)。そして、貨物列車は駅をほとんどの駅を通過するのが常で、当然タブレットの授受も走行しながら行われる。この友人は、確実にタブレットの授受を走行しながら行うことが任務で、とにかくタブレットキャッチャーに投げ入れるのはもちろん、票授器からタブレットを腕で受け取るのも緊張の連続だったという。そして、票授器からタブレットを腕に引っかけて受け取る時はとにかく腕が痛かったそうだ。この友人は、気の狂うような(と、筆者は思っている)適性検査をパスし、医学適性検査というハードルを超えて免許を取得し、正式に機関士になったそうだが、その後はどうしていることだろうか。
話が逸れてしまったので、久留里駅の話に戻すが、駅舎は木造平屋の古い建物をそのまま使用している。先ほど全駅を管理する管理駅と紹介したが、そうした駅とは思えない小さな駅だ。駅の規模こそ小さいが、久留里線全体を統括する駅の役割は大きく、そのためにこの日でも日中は二人配置になっているようで、上りと下りそれぞれのホームに駅員の姿が見られた。

久留里駅は久留里線の駅の中で、もっとも規模が大きいものだった。といっても、木更津駅を除けばの話で、駅舎も平屋建てである。それでも、横田駅のような民家ににたようなものではなく、窓も多くそれなりに職員が勤務していることを伺わせる。駅前の広場にはタクシーが駅待ちするためのスペースが設けられ、駅の入口脇には郵便ポストも設置されているなど、この街の中心となっていることがわかる。そして、駅の脇にはJR東日本が保有する業務用自動車の姿があり、「久留里線営業所」の標記があった。久留里駅は久留里線各駅を統括・管理する管理駅の役割を担うとともに、沿線への営業活動などもしていたようだ。しかし、JR東日本の大規模な組織改革により2023年に木更津統括センターに引き継がれ、久留里線各駅の管理業務を残すのみとなった。(久留里駅 2012年1月5日 筆者撮影)
ところで久留里駅から2km弱のところに、久留里城という城趾がある。甲斐武田氏の流れを汲む安房武田氏によって築城され、後に南総里見八犬伝でも有名な里見氏によって抑えられた城である。後に里見氏から松平氏の手に渡り、久留里藩の藩庁ともなり、久留里の町は上総国はもちろんのこと、武蔵国の埼玉郡や比企郡をはじめとした現在の埼玉県南西部までも支配地域とした藩の中心城下町として栄えたようである。久留里の町はそうした古くからの町で、久留里街道に沿って家々が建ち並ぶ様もまた、城下町であったことの名残なのだろう。
《次回へつづく》
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