《前回からのつづき》
▶急行「銀河」誕生前史:戦前の17・18列車から戦後復活までの夜行急行の歴史
すでにお話した通り、急行「銀河」の歴史をたどると、戦前に運行されていた列車に辿ることができます。
第二次世界大戦が始まる前、東京ー大阪間で運行されていた夜行急行17・18列車後それに当たりますが、この列車は他の夜行急行とは大きく異なる点がありました。急行列車は運賃の他に急行料金が必要となる優等列車の一つですが、特急列車とは異なり多くの人が利用しやすいように料金は安価に設定されていました。2025年現在も、JR各社の旅客営業規則に急行料金が定められていますが、その価格はJR東日本では50kmまでは560円、100kmまでは760円とされているなど、特急券よりも安いのがわかります。これも、国鉄、更には鉄道省の時代からの流れで価格を抑えた設定になっているためで、その伝統が引き継がれていると言っても過言ではないでしょう。
しかし、この17・18列車は急行列車であるものの、連結されている車両がほかとは違う特徴を持っていました。それは、一般の急行列車ならば運賃が安い三等車が主体になるのですが、この列車は三等車の連結はなく、一等車と二等車だけで編成を汲んでいたのです。

▲戦前の急行第17・18列車の時刻表
戦争中はこうした列車の運行は中止されていました。鉄道は軍需物資をはじめとする貨物輸送が優先されるとともに、不要不急の旅行は国の方針によって制限され、贅沢な設備をしつらえた寝台車などは運用からも外されてしまい、多くは駅や運転区所の片隅に留置されて野放し状態になってしまいました。そして、中には勤労動員によって増加した通勤輸送のために格下げ、改造されていくなどかつての栄華を極めた車両たちは、儚くもその姿や用途を変えてしまいました。
1945年に第二次世界大戦が終わると、進駐してきた連合軍によって一部の車両は接収されていきます。特に戦時中は不要不急の旅行を制限し、贅沢な設備を誇った一等車や二等寝台車などは運用を中止して留置されていたものが多く、状態のよい車両は有無を言わさず接収され、連合軍専用車両として運用されていきます。
その一方で日本の国民はこれら上等の車両を利用する機会はなく、その殆どは三等座席車を、最悪の場合は貨車を客車の代用としたものを利用せざるを得ませんでした。特に終戦による武装解除と軍の解体によって多くの元将兵が復員してくると、郷里に帰る人々で混雑していました。加えて物資の不足、特に食料品や生活用品が極端に不足したことで、これらを求めて買い出しに繰り出す人々も多く、戦時中の貨物輸送重視から一転して、旅客輸送の需要が爆発的に増加したことも混乱を招く一因になっていました。
そうした中で、1947年になると東京ー大阪間に急行列車の運転が始められます。第103・104列車がそれで、戦前は東京ー神戸間で運転されていた列車が復活した形でしたが、当時は連合軍の占領下にあるため海外渡航が許されていなかったことから、運転区間を大阪に短縮しての再開でした。
運転開始から1ヶ月後には列車番号が変えられ、第103・104列車は第11・12列車に改められました。さらにその2年後の1949年になると、第11・12列車は第15・16列車と番号が替わり、同時に「銀河」の愛称がつけられました。

戦後に運転が始められた当初の第103・104列車の編成図。戦前の「名士列車」に準えたのか、すべて二等車で構成されていた。このことは、一部の富裕層しか乗れないことを意味し、多くの利用者から反発を買ったことは想像に難くない。
この当時の「銀河」の編成は、一等寝台車として当時最新鋭だったマイネ40形が2両連結され、座席車はすべて二等座席車のマロ40形が4両、緩急車として二等座席緩急車のオロフ32形が1両の、合計7両編成を組んで運転されましたが、そのすべてが一等または二等という豪華ぶりで、戦前の「名士列車」と呼ばれた時代を彷彿させるものでした。
しかし、一般庶民にとってこの「銀河」の編成は不評を買いました。そもそも急行列車は廉価な特別料金である急行券を購入すれば乗ることのできる、比較的身近な存在でした。この時代、高価な一等はもちろんのこと、三等よりも割高な二等の乗車券を購入できるのはごく一部の限られた人たちでした。戦後の混乱も徐々に収まりつつあったものの、多くの人は困窮した生活を維持するのが精一杯で、鉄道を使って移動するときには三等乗車券を購入するのが一般的だったと考えられます。とはいえ、少しでも早く目的地に行きたいというのは誰しも考えるところで、そうした人たちにとって準急や急行は多少の料金を払っても手の届く存在でした。
その急行列車が、あろうことか一等寝台車と二等座席車しか連結されていないというのは、乗りたくても乗ることができない列車でしかありません。当然、国鉄に苦情が殺到したのは想像に難くないでしょう。
これに加えて、愛称がつけられた当初の「銀河」は、ある意味では「異様」な編成だったとも言えます。同じ日に運行を開始した特急「平和」は、戦後の復興を象徴する列車でした。一等展望車を連結した戦前の特別急行列車を彷彿させ、食堂車も組み込まれるなど特急としての体裁を整えていました。
しかし「平和」は一等展望車や二等座席車だけでなく、三等座席車も連結していたことで少し値段の高い特急券を購入すれば、三等を利用したい人も乗ることができました。特急は国鉄にとって「特別」な列車という考えがありながらも、三等座席車を連結していたのに対して、ふつうの急行である「銀河」が一等寝台車と二等座席車だけで編成を組んでいたのは、やはり「異様」だったといえるのです。
とはいえ、「銀河」がこのような編成を組んだのは、それなりの理由があったからだと筆者は考えます。
まず一つは、「銀河」の潮流を辿ると戦前の「名士列車」と呼ばれた列車だったといえます。列車番号が示すように、「銀河」は第17・18列車の番号が与えられていましたが、これは戦前に同じ番号の再速達の急行列車につけられたものと同じで、この列車こそが一般の庶民に手が届かない一等車と二等車のみで組まれていました。
そのため、伝統を重視する傾向が強かった当時の国鉄としては、同じ列車番号を与えられた「銀河」こそ特別な存在であり、戦後の復興を象徴する「平和」とともに「銀河」もまた、戦前の列車と同じコンセプトで設定したといえます。
もう一つは、三等車を連結した場合、一等車・二等車の乗客との分離をする必要があると考えていました。三等車の乗客が安易に一等・二等の車内に立ち入ることを防ぐ必要がありました。そんなことが年中起これば、一等・二等の乗客から苦情が来るのは目に見えて分かることです。
「平和」は三等車と一等・二等車の乗客を分離するために、食堂車を連結させることで対処しました。また国鉄では、特急列車に食堂車を連結することを、伝統の不文律としていました。戦後の復興を象徴する「平和」にも、この伝統に則り食堂車を連結することは欠かすことのできないものだったといえるのです。

さすがに一等展望車であるマイテ49形などは急行「銀河」やその前身となる「名士列車」に連結はされなかったが、一等車のような優等車両の連結は、その列車に与えられた一種のステータスであった。そして、これらの列車に乗り、優等車両に乗ること自体が利用者のステータスでもあった。現在のものクラス制に移行する以前は等級制であり、車両や乗客にもヒエラルキーが存在していたと言っていいだろう。今日、現存する一等車両はJR西日本に継承されたマイテ49形と、碓氷峠鉄道文化むらに保存されているマロネ40形ぐらいしかない。このうち、戦前製のマイテ49形は、車体重量を支えつつ乗り心地を向上させるため、3軸ボギー台車を装着していた。(©にぶさま, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
さらに、特急とはいえども「平和」は昼間の時間帯を9時間もかけて走る列車でした。途中の停車駅も少ないため、停車した駅で駅弁を買う機会も少なく、長時間を車内で過ごすことを強いられる乗客たちに、食事を提供できる設備を整えた食堂車は必用な存在でした。
しかし、「銀河」は急行という種別であったことや、夜遅くに始発駅を発車し、翌朝早朝に終着駅に到着するという、深夜を通して運転される夜行列車という性格だったため、食事を提供する必要もないことから、「名士列車」の伝統を引き継ぐ一等寝台車と二等座席車だけで編成を組むことができたといえるのです。
《次回へつづく》
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