3:急行「銀河」1949–1950:誕生直後の編成変更と寝台車再編の歴史
《前回からのつづき》
1949年9月に「銀河」として運転されることになった第15・16列車は、一等寝台車であるマイネ40形と二等座席車のオロ40形、そして二等座席緩急車のオロフ32形だけで編成を組むという、急行列車としては異色の列車でした。
この時の「銀河」の運転時刻は、下り15列車は東京20時30分発で大阪には翌7時45分、上り16列車は大阪を21時0分に発車し東京には翌7時30分着と、下りは11時間15分、上りは10時間30分をかけて走破しました。とはいえ、どちらも仕事を終えてから深夜の間に移動するには都合のよい設定で、仕事が始まる前に到着でき、しかも朝食を摂る余裕も生まれるものだったといえます。
しかし、この編成は一部の富裕層などしか乗ることができないと、国鉄に対して批判が殺到することになります。また、このような上等車だけで編成を組んだことで、利用することができる人が限られてしまうことから、乗車率も芳しくなかったと考えられます。
さすがに伝統を墨守するだけでは採算がとれず、しかも批判も収まらなかったためか、「銀河」として運転を始めてからわずか10日足らずで編成を変え、マイネ40形2両はそのままとし、二等座席車は大阪方に4両、そして三等座席車を7両連結した13両編成になりました。

▲1949年9月の「銀河」の編成。寝台車はマイネ40形2両を連結し、神戸方は二等座席車のスロフとオロ、東京方には三等座席車を連結した。このことにより、「名士列車」以来の富裕層向けのものから、庶民も利用できる列車へと変化した。
この編成の組み替えによって三等座席車が連結されたことから、「銀河」はようやく一般の庶民も利用しやすい列車になりました。しかし、マイネ40形は利用率が悪かったためなのか、3か月足らずで2両から1両に減らされた上に三等座席車に置き換えられたものの、さらにその1か月後には再びマイネ40形に差し替えられて、再び一等寝台車が2両になるなどめまぐるしく変わっていきます。
1950年になると、寝台車の陣容が変化しました。マイネ40形は再び1両に減らされた一方で、プルマン式開放寝台を備えたマイネ41形に差し替えられ、さらに二等寝台車のマロネ39形が組み込まれ、上等車であるものの寝台車は3両になりました。
マイネ41形はマロネ40形の増備車として、1950年に製造されました。マロネ40形が2人用の2段寝台を備えた個室を4室と、プルマン式開放寝台を8区画備えていたのに対し、マイネ41形はすべてプルマン式開放寝台とされ、マロネ40形の倍になる16区画になり定員も増えました。
いずれも国鉄が自ら製造しようとしたものではなく、当時、日本を占領統治下に置いていた連合国軍総司令部で鉄道部門を担当していた民間運輸局(CTS)が、連合国の軍人を輸送する専用列車に使うことや、外国人観光客を輸送するために計画してつくることを命令し製造されたものの、その後の方針転換によってすべてキャンセルとなり、国鉄がこれを購入したものでした。

戦後初めて製造された一等寝台車のマイネ40形は、国鉄自身がつくろうとしたものではなく、当時、日本を統治下に置いていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令によるものだった。しかし、命令が下されていざ製造に取りかかると、GHQは方針を一転してこれを取り消してしまう。既に作り始めていたものを、不要になったからといって廃棄するほど、当時の日本は物資面でも余裕はなかった。そのため、そのまま製造は続けられ、落成後はそのまま国鉄が運行する列車に使うことになった。車体には一等車を示すクリーム色の帯が巻かれ、帯には「寝台」と「J.G.R」の文字が書かれている。落成当時はまだ国鉄は誕生しておらず、運輸省鉄道総局が運営する国営鉄道だったため、「Japanise Government Railway」の略称が入れられた。(マイネ40 11 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)
2両連結されていたマイネ40形のうち1両をマイネ41形に差し替えたことで、一等寝台車の定員が増えました。これに加えて二等寝台車であるマロネ39形を連結したことで、等級の違いはあるものの寝台車の定員が増えたのでした。
マロネ39形は幅700mmの2段式寝台を1部屋あたりに2組ずつ、定員4人の個室を備えた車両でした。幅700mmと聞くと14系以降のB寝台車と同じサイズなので、二等寝台としては狭く感じるかも知れませんが、当時の日本人の体格からすると必用十分であり、二段式であることから天地方向に余裕があるため、居住性はそれなりによかったことから二等寝台車とされたと考えられます。
戦前の二等寝台車の多くはツーリスト式と呼ばれるものが多く、窓に背を向けて着席する今の通勤形と同じ座席配置で、夜になるとここに仕切り板を引き出し、上段寝台を下ろして二段式寝台としていたので、定員が4人とはいえ扉のついた個室になる設備は、当時としては上等の設備を持っていたいえます。
こうして、一等寝台車2両と二等寝台車1両を連結した一方で、二等座席車は1両減るなどしましたが、寝台車の需要に応えた形になったといえるでしょう。
《次回へつづく》
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