2:丹那トンネル開通が変えた伊豆への道──駿豆鉄道直通と準急列車の盛衰
《前回からのつづき》
熱海が東伊豆の玄関口であれば、西伊豆の入口に当たるのが沼津でした。沼津からは修善寺や土肥、堂ヶ島などの温泉地が点在しています。そして、これらの温泉地に向かう鉄道として、駿豆鉄道が当時の三島から修善寺まで開通していました。
1933年に、鉄道省は東京―熱海間の列車とは別に、駿豆鉄道の修善寺まで直通する列車の運転を始めます。といっても、列車1本を仕立てて運転するのではなく、ほかの列車に併結する形で三島(現在の御殿場線下土狩駅)まで運転され、ここで修善寺に向かい車両を切り離すものでした。それでも、東京から西伊豆や中伊豆へ向かうことができる列車が設定されたことは、保養地を訪れる人々の選択の幅を広げ、それとともに鉄道による恩恵をこれらの地域の人々にもたらしました。

熱海富島の間には、箱根山から伊豆半島に連なる山が立ちはだかり、鉄道の建設を妨げていた。もともと伊豆半島は1つの島であり、プレートの移動とともに本州に衝突して陸続きになったため、その地層は非常に複雑である。加えて活断層も存在するため、この下にトンネルを建設するためには高度な技術を必要としていたが、昭和に入るまでは非常に難しかった。東海道本線の高速化を実現させるためには、この山を貫くトンネルは不可欠であり、丹那トンネルの建設を始めたものの、複雑な地層と活断層に阻まれ多くの犠牲者を出す難工事となった。このトンネルの上には小さいながらも盆地が形成され、トンネル建設までは豊富な水を蓄えワサビや米が栽培されていたが、工事により地下水が漏出したことで渇水状態になり、代わりに酪農が盛んになる。この盆地にも活断層が走っている。(©Batholith, Public domain, via Wikimedia Commons)
そして、1934年に鉄道省はもちろんのこと、伊豆の人々にとって悲願ともいえた丹那トンネルが難工事の末に開通しました。これによって、それまで多くの制限が伴っていた御殿場周りのルートから、本命ともいえる小田原・熱海を経て沼津へ至るルートが東海道本線となり、従来のルートは御殿場線として系統が分割されました。
この丹那トンネルの開通と同時に、東京―熱海間で運航されていた準急2往復のうち1往復が沼津まで延長されるとともに、東京―熱海間には土曜日に下り1本と、日曜日に上り1本の列車が増発されました。加えて、新宿―沼津間も同様に土曜に下り1本、日曜に上り1本の列車が設定されました。驚くことに、1930年代に今の湘南新宿ラインのような列車が設定されていたのです。
東京からもっとも身近な保養地の一つである熱海に向かう列車は、年を追うごとに増発され多くの人に利用されたことでしょう。そして、箱根や熱海、そこから足を延ばして伊豆に点在する温泉にも、多くの人が訪れることにもなっていたといえます。

いまでこそ、東京から熱海を経て、伊豆半島の東海岸を走り伊東と下田を、そして丹那トンネルを通り抜けて西海岸の修善寺へ向かう特急列車は当たり前の存在となった。しかし、このトンネルの開通まではこの熱海で鉄路は途切れ、伊東や下田に向かうには他の交通機関を使わなければならず、修善寺へは御殿場を回って行くほかなかった。(E257系「踊り子」と211系5000番台沼津行き普通列車 2023年3月16日 熱海駅 筆者撮影)
しかしながら、それも長く続くことはありませんでした。日中戦争の勃発は人々の暮らしにも大きな影響を与え、特に伊豆の保養地に出かけるような行楽は厳に慎まれるようになり、新宿発着の列車など一部の運転が取りやめられました。
それは、1941年の太平洋戦争に突入したことによってさらに厳しくなり、鉄道は戦時輸送を優先させるために貨物列車を増発させ、同時に不要不急の旅行は制限させることによってほとんどの優等列車は運行を休止になっていき、1942年になると戦時非常態勢を理由に東京ー沼津間の準急列車などすべて廃止されてしまいました。
《次回へつづく》
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