9:伊豆急行はなぜ生まれたのか──五島慶太の悲願と東急・西武の抗争、そして下田への鉄路
《前回からのつづき》
1961年の伊豆急開業で東京〜下田直通体系が成立し、「伊豆」「おくいず」「あまぎ」が伊豆観光の主役となった。1964年の東海道新幹線開業で国鉄は乗り換え利用を促し準急削減を狙ったが、熱海・三島での乗り換え負担や料金面から直通列車の需要は依然強く、伊豆方面は直通優等列車が生き残る特異な地域となった。
1961年になると、伊豆半島の鉄道にとって大きな転機が訪れました。それまで、東伊豆は国鉄伊東線、西伊豆は駿豆鉄道駿豆線の2路線でした。しかし、東伊豆は伊東までしか鉄道が通ってなく、それから先の熱川や河津、そして下田へは伊東からバスなどに乗り換えて向かう必要がありました。しかも、これらの道路は海岸沿いの狭い平地に建設された国道を走るため、お世辞にも線形が良いとはいえず、場所によっては道幅が狭かったりアップダウンがあるなどしていたため、時間がかかっていました。
伊東以南、とくに南伊豆の下田の人々にとって、鉄道の延伸は悲願ともいえることでした。再三に渡って国鉄に伊東線の延伸を要望していたものの、国鉄は前向きに応えることはなかったのです。
そうした状況の中で、ある人物が伊東以南への鉄道延伸に名乗りを上げました。
東京急行電鉄を筆頭とする東急グループの総帥であり、かつては国鉄の前身となった運輸通信省の大臣にもなった五島慶太でした。五島慶太は伊豆の観光地としての価値が大きいと考えるとともに、ここを一大リゾート地にすることで自らが率いる東急グループに多大な利益をもたらすと考えました。そして、この伊豆の地を自らの手中に収めるためには、伊東以南に鉄道を通すことは不可欠であるとし、国鉄が資金難にあえいで下田までの鉄道建設に躊躇していることもあって、莫大な資金を投じて鉄道建設を目論みました。
しかしこの頃、五島慶太率いる東急と、終生のライバルといっても過言ではない堤康次郎率いる西武は、様々なところで衝突していました。群馬県の草津の利権をめぐる争いや、箱根の観光利権をめぐって争った「箱根山戦争」は小田急を介して行われた「代理戦争」の様相を呈していました。そして、伊豆をめぐっては東急と西武の代理となった伊豆箱根鉄道と争うことになり、特に伊豆では鉄道建設免許の争奪にまで発展しました。
結局、運輸省は伊東-下田間の鉄道免許を東急側に下ろし、西武と伊豆箱根鉄道は敗者となってしまいましたが、それでも争いの火は消えることはなく、東急が建設を進める鉄道用地の一部を買い占めて妨害をするなどといった抗争が続いたのでした。

東急の総帥、五島慶太の強い願いによって建設された伊豆急行線は、伊豆半島東岸の海岸線に沿って建設された。東急と西武による観光地における覇権をめぐっての争いは、遠く群馬県の草津、長野県の軽井沢、そして箱根をめぐって繰り広げられた「箱根山戦争」と多くの場面で常に争っていた。そして、伊豆でも同様に両社の争いは起き、鉄道建設免許の取得にまで発展したものの、結果は東急側に免許交付という形で一応の決着を見た。そして、免許交付の翌年である1960年に建設を始め、わずか2年で全線が完成、驚異的な早さで開業に漕ぎ着けている。この鉄道が開業したことによって、伊豆半島、特に南伊豆へのアクセスは格段によくなり、国鉄からも多くの列車が乗り入れるようになったことで、多くの観光客が訪れる首都圏有数の保養地としての地位は大きく向上したといえる。(出典:写真AC)
1959年に鉄道敷設免許を得ると、1960年に伊東-下田間の鉄道建設が始まりました。そして伊豆半島東岸の険しい地形に阻まれ難工事になり、落盤事故やダイナマイトの暴発事故に見舞われ、工事関係者にも犠牲が出てしまいました。そして、着工から2年足らずの1961年12月に伊豆急行線として開業にこぎ着け、国鉄伊東線との直通運転も始められ、首都圏から伊豆方面への鉄道網は完成を見たのでした。
しかしながら、この壮大な構想を打ち立てた自らの集大成としていた五島慶太は、伊豆急行線の完成を見ることなく、1959年に伊豆急行の前身となった伊東下田電気鉄道が設立された直後に病のために逝去してしまいました。
その伊豆急行線が開業すると、それまで伊東止まりだった伊豆方面の準急列車たちは、さっそく伊東から乗り入れを始め、多くの列車が伊豆急下田まで運転されるようになります。そして、「伊豆」の1往復と「おくいず」が伊豆急行線へ乗り入れ、伊豆急下田まで運転されるようになり、東伊豆の観光地に向かう多くの人々を運ぶようになりました。
《次回へつづく》
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