14.157系引退と東北新幹線用地確保が揺さぶった伊豆優等列車:1970〜75年の廃止・統合・183系投入までの変遷
この記事をまとめると
1970年代に入り、「湘南日光」と「常磐伊豆」が利用減と東北新幹線用地確保のため相次いで廃止され、伊豆方面は「あまぎ」「伊豆」「おくいず」の体制に縮小した。1975年には老朽化した157系が183系に置き換えられ、「おくいず」も「伊豆」に統合。特急「あまぎ」と急行「伊豆」の二本立てとなり、後の「踊り子」登場へつながる運転体系が形作られた。
《前回からのつづき》
1970年には日光と伊東の間を直通する形で運転されていた「湘南日光」が廃止になり、翌1971年には常磐線に乗り入れていた「常磐伊豆」も廃止になります。この2つの列車が廃止になった背景として考えられるのが、利用者の減少と1973年から開始が計画されていた東北新幹線の建設工事でした。
東京−上野間は鉄道用地として使える敷地空間が非常に狭く、東北本線のほかに中央快速線、山手線、京浜東北線の4路線が並走していました。そこに東北新幹線を通すとなるとその分の土地が必要だと考えられましたが、この区間は両側に道路が通っているため、拡張することはほとんど不可能でした。しかし、いずれ東北新幹線は東京発着になることが決定していたため、新幹線の用地を確保するには在来線の用地を転用するほかありませんでした。
中央快速線や山手線、京浜東北線は既に多くの列車が運転されていたことなどから、これらの路線を廃止にすることは現実的ではありません。もし、国鉄が強行しようものなら、利用者から想像をはるかに超える苦情が殺到するのは目に見えてわかることで、その選択はありえないことでした。であれば、東京−上野間の輸送は山手線と京浜東北線に任せ、東京−上野間の線路を廃止にし、長・中距離列車の運転系統を完全に分離した上で、この線路を撤去した跡地を東北新幹線の建設用地として捻出することになったのです。
この東京−上野間の線路、いわゆる「回送線」は長距離旅客列車だけでなく、荷物列車もここを通過していました。特に東北・常磐線方面から東海道線方面へ直通する列車は、「回送線」を通ることでこれらの地域から運ばれてきた荷物や郵便物を、東京駅で積み下ろしをしていたので、いわば物流も支えてきたのです。しかし、「回送線」の廃止を前に直通する荷物列車も廃止になり、その後は山手貨物線周りなど東京駅を通らない運用に変わっていきました。
こうして、「常磐伊豆が廃止になると、伊豆方面の列車は「あまぎ」と「伊豆」、そして「おくいず」だけになりました。

▲1969年の首都圏対湘南・伊豆方面の時刻表。この当時はまだ急行列車だけだったことが分かるが、「伊豆」が157系で、「あまぎ」は153系で運転されていたため、後年とはまだ立場が逆だった。東京発は早朝から昼過ぎにかけて発車、終着の伊豆急下田や修善寺には昼過ぎから夕方にかけて到着するダイヤが組まれ、定間隔ではないが40~90分おきに運転されていた。
1975年になると、「あまぎ」の運用に充てられていた157系が、老朽化のために183系に置き換えられました。前述の通り、157系は一段下降窓と国鉄形車両としては珍しい側窓を採用していましたが、この方式の窓では車体裾部の内側に砂埃がたまり、そこに入り込んできた雨水によって常に水気を帯びた状態になるため、車体の鋼板を腐食させやすい弱点を抱えていました。検修陣はこれを何とか防ごうと様々な努力を積み重ねてきたのですが、さすがに長期に渡ってこの状態が続いたことで、老朽化を早めてしまったと考えられるのです。

1975年の「ゴーマルサン改正」時の首都圏対湘南・伊豆方面優等列車の時刻表。1969年と比べて激増しているのが分かる。このダイヤは3月のもので、6月にかけて多数の臨時列車も設定されている。運転間隔は15分~45分程度で、中には先行の列車が発車してから10分後に発車するという過密ぶりだった。すべての臨時列車も運転されると仮定すると、20往復以上も列車が運転されていたことになる。
結局、先に登場した153系よりも一足先にすべての運用から離脱し、直流用の特急型電車である183系に後を託すことになりました。そして、急行形でありながら特急列車の運用に充てられるほどの客室設備をもった「特殊急行形」とも呼ばれた157系は、この「あまぎ」を最後の花道に姿を消していったのです。
代わりにやってきた183系は、交直両用の485系などを基本に、特急列車の運用に充てることを前提として設計された車両でした。ただ、直流区間だけしか運行することができないため、比較的中距離の列車が多くなることや、ラシュ時にも列車を運行するときに乗降時間を短くする目的から、485系では乗降用扉が1か所だったのに対し、183系では2か所に増やしました。もっとも、その扉の幅は特急形電車として一般的な幅700mm片開き戸であったため、乗り降りにはそれなりに時間がかかることも多かったようです。
1975年の「ゴーマルサン改正」では、特急「あまぎ」と急行「伊豆」「おくいず」の3本立てとなりました。「いず」と「おくいず」の違いは「伊豆」が定期運行を前提としていた一方、「おくいず」は多客時の臨時列車としての性格を色濃く帯びていたと考えられます。
特に3~5月の行楽シーズンには多数の臨時列車が設定され、仮に定期、不定期すべての列車が運転されていたとすると、22往復という途方もない数になります。列車によっては先行の列車が発車してからたったの5分後に後続が発車するというダイヤ設定で、まさにこの頃は多くの観光客が伊豆に向かっていたことが垣間見えることでしょう。
これだけの数をこなすのですから、列車を運行する等の国鉄も苦労していたと推察できます。特急はもちろんのこと、急行といった優等列車には車掌長と乗客専務車掌が乗務していました。しかし、こうした優等列車に乗務できる車掌は誰でも乗務できるものではなく、乗務経験が豊富で勤務成績などが秀でる人物が選ばれていたといいます。
そのため、これだけの数を運転するとなると、運転区所や車掌区では乗務員のやり繰りにも苦労したことでしょう。いくら多くの利用者がいる多客時とはいえ、限られた人数の人員を22往復も設定されてしまっては、乗務員運用も非常に難しかったことが想像できるところです。
また、車両運用も苦労したと考えられます。田町電車区に配置されていた153系だけで捌ききれなくなると、本来は修学旅行列車用としてつくられた155系までも駆り出されていました。実際に記録写真を見ると、朱と黄色の修学旅行色を身に纏った155系が「おくいず」に充てられているものがありました。
運転区所の片隅に留置され、修学旅行シーズンまでの間は使われるあてもなかったのが、伊豆方面へ向かう利用者が爆発的に増えてしまった結果、155系までもが動員されることになり、伊豆の海岸沿いをレモンイエローとオレンジの2色を身に纏った、低屋根・グロベン、そして低運転台の電車が駆け抜けたのです。

集約臨時輸送列車、いわゆる「修学旅行列車」用として開発・製造された155系は、153系をベースにしているものの、収容力を可能な限り増やすため車内は2-3アブレストの座席、座席間には折りたたみ式テーブルなど、利用する生徒の移動を最大限に考慮したものだった。一方、台車は金属コイルばねのDT21形を装着するなど、コストダウンも図られている。修学旅行シーズン以外では波動用として運用されることもあったようで、臨時急行「おくいず」の運用にも就いていた記録があることから、修学旅行の生徒だけでなく多客時の観光客も輸送していた。(©vvvf1025, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
その年には、「おくいず」が「伊豆」に統合される形で廃止になりました。この「おくいず」の統合と廃止により、特急は「あまぎ」、急行は「伊豆」のみとなり、「踊り子」登場までの間はこの2本立ての体制となったのです。
1980年代に入ると、「伊豆」の運用に充てられていた153系も、ついによる年波には打ち勝つことができず、置き換えの対象になっていきました。しかし、この頃の国鉄は急行列車はダイヤ改正のたびに廃止や特急への格上げの形で整理統合することが常態化していたため、153系の後継となる急行形電車を新たにつくることはしませんでした。
その代わりに、特急にも急行にも、そして間合いで普通列車にも使うことができる設備をもった車両として、185系の新製が始められました。
《次回へつづく》
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