旅メモ ~旅について思うがままに考える~

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第3回 洞爺丸事故と青函トンネル構想|悲劇が動かした津軽海峡の鉄道化

この記事では


1954年の洞爺丸事故が青函トンネル建設を大きく後押しした経緯を紹介します。台風による猛烈な波浪、車両渡船の構造的弱点、洞爺丸を含む青函連絡船の沈没被害、そして事故後に急速に具体化した青函トンネル構想を振り返ります。

 

《この記事、前回は》

 

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この日の17時頃には函館地方には晴れ間がのぞいたことから、乗客乗員と航送する車両を載せた洞爺丸は18時25分頃に函館駅岸壁を離岸、14分ほどして出港し函館港外へとでたところ、台風15号による猛烈な波浪に襲われたことから航行を一時取り止め、港外で碇を下ろして仮錨泊をすることにしました。

ところが、激しい波によって洞爺丸の船内に海水が浸入し始めます。当時の車両渡船は、車両を積み下ろしするための開口部に海水の浸入を防ぐための扉がなく、ぽっかりと口が開いた状態になっているという構造的な欠陥をもっていました。このことにより、車両甲板に海水が浸入、その量は増える一方で排水が間に合わず、機関室などにも海水が入り込んできてしまったため発電機が止まり、海水の排水ができない状態に陥ります。それと同時に風速は40~50m/sという暴風が吹き荒れ、洞爺丸が下ろした碇が効かなくなり、これを引きずるようにして流される走錨という状態に陥りました。さらに、浸入した海水は機関室やボイラー室にも入り込み、燃料である石炭を蒸気ボイラーへ投入することもできなくなってしまったのです。

 

青函連絡船は「船舶を介して鉄道網を連絡輸送する」航路であるため、鉄道省→国鉄→JR北海道が運航していた。もっとも初期の頃は旅客は列車から乗り換え、貨物は載せ替えることが減速だったが、時間とコストがかかる欠点があった。そこで、車両ごと連絡線に乗せてしまう「車両航送」が行われるようになり、それを可能とする車両渡船も開発されて青函航路に就航する。しかし、初期の車両渡船は車両を積み下ろしする車両甲板に防水扉はなく、大きな口を開けた状態のまま運航されていた。このことが、悪天候時に船内に海水の侵入を許すことになり、洞爺丸台風では洞爺丸をはじめとした車両渡船の沈没へつながる大きな要因となった。その後、車両渡船の積み下ろし口には防水扉が設置されるようになる。写真は青森に保存されている八甲田丸と可動橋部分で、船側は水密扉が閉じている状態である。車両積み下ろし作業時はこの扉が開き、手前の可動橋のレールと車両渡船のレールが繋ぎ合わされる。(出典:写真AC)

 

当時の船舶の多くが石炭を燃料とした蒸気ボイラーを使っていました。そのため、燃料の投入は人力に頼らなければならず、海水が浸入してくるとたちまちその作業ができなくなります。その結果、蒸気ボイラーは燃料がなくなり機関停止に陥るため、洞爺丸も主機の運転不能、すなわち機関故障の状態に陥ってしまったのでした。

こうした経緯を辿りながら、深夜の22時半前には座礁した結果、船体は右舷方向に傾斜してしまいます。既に船の復原力を失っていたことや、激しい波と暴風にさらされ続けた結果、船体は横倒しになってしまい転覆、22時45分頃に船体がひっくり返り船底を上にした状態で沈没してしまったのです。

この他にも第十一青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸の4隻も沈没してしまいました。

国鉄は青函連絡船に配船していた船舶のうち、5隻を一晩で沈没してしまったのです。

しかし、これら4隻は乗客は乗せていない状態で、犠牲者はすべて国鉄の船舶職員でした。ところが、洞爺丸は乗客を乗せた営業運航中の船で、その数は1155名の死亡という大惨事となり、20世紀半ば頃では1912年4月に起きた豪華客船タイタニック号に次ぎ、日本では最悪の海難事故となってしまったのです。

 

「不沈船」と言われた客船「タイタニック」は、氷山との接触事故により処女航海の途上で沈没事故を起こしてしまう。その犠牲者の数は乗員乗客合わせて1513人にものぼり、当時の海難事故としては世界最悪の事故となった。1954年に起きた洞爺丸事故は、1155人の犠牲者を出し、日本の海難事故で最悪のものとなるとともに、タイタニックに次ぐ犠牲者を出した事故となってしまった。この洞爺丸事故を契機に、津軽海峡を船舶で連絡するのではなく、海底トンネルを介して本州と北海道を結ぶ構想が具体化していくことになる。(パブリックドメイン)

 

この事故は国鉄にとってはもちろん、日本にとっても大きな衝撃をもたらしました。最新技術を投入してつくられ、戦後の復興を支える大きな期待をもって建造した洞爺丸が、台風という自然災害によって沈んだこと、何よりも乗員乗客1155名が犠牲になったことは、戦前に計画されながら凍結となっていた青函トンネル構想を再起させる後押しとなったのでした。

そして事故から僅か半年後には青函トンネルの建設を前提とした技術委員会が発足、1960年には試験トンネルの実験を始め、1961年に建設が開始されました。これほどの早さで建設が具体化し実際に着工した背景には、やはり洞爺丸沈没事故があまりにも悲惨で大きな衝撃を与えたことの証左だといえます。

 

《次回へつづく》

 

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